プロローグ
6月6日・・・
この日のために私たちは備えてきました。
既にリハーサルの時期は過ぎ、
オーディションも終わって、
5月27日に初日を迎えた私たちは、
今日で7日目のステージに立っています。
◆私たちのステージとはこちら↓↓↓
※本日からガヤトリーマントラによる合同マントラです。
※6月突入・・・!
※緊急・・・自己防衛・・・
S.のブログ.神とは?.愛とは?より
『私が光の戦士である理由』
大学時代、私の所属していた男声合唱団は、
日本音楽界の重鎮であられた畑中良輔先生に
専任指揮者としてご指導いただける幸せな団体でありました。
恥ずかしながら、大学に入るまで先生のことは
知らなかったのです。
畑中先生は、長年にわたり東京藝術大学で教鞭をとられ、
また「レコード芸術」をはじめ執筆活動も多岐に渡り、
また声楽家として数々のオペラの日本初演を成功させ、
新国立劇場の初代芸術監督も努められ、私の教わった小中高の
音楽の教科書にも、常に監修者としてお名前がありました。
その畑中先生が、5月24日に急逝されました。
2月には、お元気に卆寿を迎えられたばかりでしたので、
「信じられない・・・」という思いでいっぱいです。
先生の薫陶を受けた声楽家は世界中で活躍されておられ、
そんなお弟子さん達のはるか後ろの末席も末席、たとえ「場外」で
あっても、先生の教えを受けられたことは本当に幸せでした。
一つの時代が終わったという大きな喪失感を感じずには
いられませんが、今改めて感謝の気持ちがこみ上げて参ります。
心よりご冥福をお祈りいたします。
朝日新聞の「声」欄に、戦時中畑中先生の音楽の授業を受けた
という、当時14歳だった方の投稿が載りました。
「上野の音楽学校(現 東京芸大)から畑中という教官が
やってきてメンデルスゾーンとモーツァルトの歌曲を教わった」
というのです。
戦時中の軍国主義のさ中にあって、このような美しい音楽に
接することができたことに驚くと同時に、その出会いこそが、
「美への憧れ」を生涯忘れない自分を創ってくれた、と
既に80歳を過ぎたその方は想いを綴られていました。
そんな畑中先生に52年の長きに渡り、芸大生でもないのに、
私たちの大学合唱団はご指導をいただくことができたのです。
「合唱を通じて世界の音楽への目を開け」
「美しいものは何の努力も無しには得られない」
「音楽は決して嘘をつかない」
「この4年間が一生の宝物となるよう僕も命がけでやる」
先生の言葉は今も心に響いています。
1年生のとき、オーディションを通過し、ステージに立ったとき
2400人収容のホールで足がすくみました。
自分の声を出すことにこれほどまでに恐怖するとは
考えてもみなかったのです。
つづく