おはようございます! KENです!!



旅も終わりに近づいてくると、
名残惜しいのか、記事がやけに長くなっちゃいます。



いや、強引に50回で終わらせる為に、
むりやり詰め込んでる感も否めませんな(笑)


前編と後編とかに分けちゃったりしてね。
この間は中編もあったな、3分割だ。


それらをカウントすれば、もう50回は超えてるね。
まぁ、いっか。



それにつけても嬉しいのは、あなたがずっとずっと
そこにいてくれたことです。



とてもとても、太陽や水や風のように、分け隔てなく
誰の上にも平等に愛を与え続けるなんてことは、
今の僕には到底できません。


これからもずっと、無限の愛への旅路は
果てしなく、永遠に続いてゆきます・・・


今の僕は、やはり、あなたがいるからこそ、
あなたに向けて、メッセージを送れるのです。



あなたがいるから、がんばれるのです。


あなたが、私の心に灯を灯すのです。


あなたが、私の命なのです。




なぜなら、
あなたは愛から生まれた愛の子、神の子だから。




あなたの中に私がいる。
私の中に、あなたがいる。


あなたは、もう一人の私・・・



そんなあなたに、ありがとう。
出会ってくれて、ありがとう。






********************

(前回からのつづき)




「聖書」についても、同様のことが言えると思うのです。



様々なことが書かれている中に、人々は天上界の波動を
感じ取っていたのです。



すなわち「愛」を。



共鳴、共感することができるのは、
自分の中に同じものあるから。





イエス亡き後、彼の話した言葉をまとめて集約して残そう
という作業が始まります。


それが「福音書」や「黙示録」と呼ばれるもので、
それらをまとめたものが「新約聖書」になりました。



この作業は、釈迦の没後も同じように成されてゆき、それが
「仏教経典」つまり「○○経」というものになったのです。
出だしは「お釈迦様がおっしゃるには」となっているのです。



聖書も、「主は言われた。」から文が始まり、孔子の残した言葉も
「論語」として編纂され、ひとつひとつの文章が「子曰く」から
始まっているのです。



直接に救世主の言葉を聞くことのできない後世の者たちは、
「聖書」や「コーラン」や「お経」や「論語」から、なんとか
聖者の説いた「真実」を読み解こうとしたわけです。



きっと疑問点がいろいろ出てきて
質問したいことも多かったと思うんです。



もしイエスや釈迦やに直接聞くことができれば、
「これはこういうことだよ」と、分かりやすく、
また違うたとえ話で教えてくださったでしょう。



ところが、もう頼りの先生はこの世にはいない。
直接指導を受けた弟子達もだんだんこの世を去っていきます。
そうしたら、ほら、あとは「解釈」するしかないわけでしょ?



弟子達がそれぞれに「師はこう言われた」ということを伝えて
いる上に、さらに後の者達がそれらを「編纂」して、切ったり
貼ったり解釈したりしたものが、さらに後世に伝えられてゆく。



そのうちには、玄奘三蔵のようにはるばる外国からやってきて
「翻訳」する者も現れて、元のニュアンスが微妙に変えられて
いくことも起きてくる・・・



キリスト教においても、各地に赴いた使徒の言葉がわかる者や
「聖書」を読める者たちが自国語に翻訳し、記録に残していって
様々な言語を話す地域に広まってゆくのです。




そして、どんなに沢山の民族、言語、地域に広まっても、
聖書の中には「愛」が説かれているがゆえに、
それが、人々の心を捉えて離さなかった。。。




そういうことでは、なかったのでしょうか。




 ■  □  ■  □  ■  □




イエスは7歳にして天使と交信ができた、いわゆる「霊道」を
開いていたということですから、大元の情報ソースから得た知識を
元に、巷の「律法学者」に議論を吹っかけることができたのです。



まぁ、生意気なガキだったことは間違いないでしょうね。(笑)
いわゆる「変わった子」「変な子」なわけで、いじめられも
したでしょうし、常に白い眼で見られていたことでしょう。



だから、マリア様もひとりの「母親」として苦労されたようです
けど、でもイエスの「使命」に早くから気づき、信じ、はりつけに
なる運命の子どもでしたが、母として全力で彼を支えたのです。



「母の愛」とは、子どもの全存在を受け入れること。



そして、子どもの可能性を信じ、心を支え、常に正しい方向に、
つまり「神の方向」に、「愛の方向」に導くということ。



あなたにも、マリアと同じ使命があるのです。







時代が経つにつれ、様々な時代に様々に編纂された「教え」が
どんどん蓄積されてゆくことになり、今度はそれを整理し体系化
しようとする学者が現れて、学問化してくる。



そうすると、学問的な研究を通して神の国を知ることのできた
一部の知識階級のみが、キリスト教や仏教の要諦を独占することに
なり、「中世」という暗黒の時代を迎えることになるのです。



政治と宗教が一体となって「世俗権力」を持ったがゆえに、
本来は大衆救済のために興った宗教というものが、民とはかけ
離れていってしまったのが「中世」という時代でした。



そこで、やはり本来の宗教の使命に立ち返ろう、原点に戻ろう
という動きが起きてくるのは必定。



それが「宗教改革」と呼ばれるもので、西洋のマルチン・ルター、
日本では日蓮などが出て、再び大衆救済の道へ戻ろうという
大きなうねりが歴史の中に刻まれることになるのです。




一方では、戒律や魔女狩りなど、小さな言動が命取りになりかね
ないような中世の暗黒の中で心を閉ざしてしまった民に、再び
人間らしい明るさを取り戻させようという動きも起きてきます。




それが、ルネッサンスなのです。







以前お話したように、かつてゼウスが地上に肉体を持って
一つの時代を築きあげたギリシャ文明。



その高い芸術性と共に、人間らしいおおらかさ伴って縦横無尽に
展開する神々の世界が描かれたギリシャ文明への憧れが、それを
模範としたすばらしい絵画や音楽や文学を花開かせたのでした。





もし、ルネッサンスがなかったら今頃どんな世界になっていたか。




考えただけでも恐ろしい・・・「特攻警察」が 宗教の名の下に
「悪人」を仕立て上げ、密告者が暗躍する「疑心暗鬼」の世界に
なっていたかも。。。





ゼウス御自身も霊言の中で、ギリシャ文明を興しておいてよかった
ということを述べていらっしゃるくらいです。




その後、哲学の方面からも、かつてのギリシャで理想の世界
「イデア」をこの地上に再現すべきと論じた「プラトン」が、
転生して「ニーチェ」となり、「ユートピア」を唱えたのです。




「イデア」も「ユートピア」も、言葉は違えど「神の国」であり、
それは「天上界」であり、その「天国」を、この地上に再現する
ことこそが人生の目的であることを説いたのでした。






ニーチェはその当時のキリスト教に対する批判をしたために、
また、彼の思想こそが「真実の世界」を論じていたがために、

皮肉にも当時、この偉大な哲人を真に理解できる者は
いなかったようです。





 **************************





人々は、キリスト教の教えの中に、コーランの中に、仏教の中に
「真実」を見出そうとして来たがために、ずっと教えを手放さずに
来たし、でもなかなかそれを「理解」することはできなかった。




なぜなら、宇宙の根本法は「愛」である、というこのシンプルな
「真実」に到達するためには、まず自らが愛の実践者として、
愛を与えるという行動を起こさなければならないからなのです。





読んで「理解」はできるかもしれない。
でも、どんなものか「実感」はできないのです。



まして、自身が愛で満たされる感動に浴する事など
「知識」だけでは得られることはないからなのです。



仏教における「悟り」の境地になかなか至れない、
というのも、まったく同じことなのです。





与えたものが還ってくるのだということ。

まいた種を、自ら刈り取るのだということ。

自分の「想い」が「現実」を引き寄せているのだということ。

相手は自身の「鏡」であるということ。

「因果応報」であるということ。





宇宙はこのようなシンプルな「因果律」によって
成り立っているのです。





だったら、


■他人に対して「どんな」言葉をかけ何を為すべきなのか。

■「どんな」理想を想い描き、日々を送るべきなのか。

■相手の中に「どんな」自分の姿が映し出されているのか、
 それを見出し反省することができるか。

■「どんな」種を蒔き、「どんな」世話をすれば、
 「しあわせ」という果実が得られるのか。




このように原因と結果についての関係を常に意識し、
自分の想念、自分の立ち位置を点検しながら、いかに
「自分」というものを育てることができるか否か。



そのことに尽きるのだということ。



そして、そのような問いかけを自分自身にした時に、
常に目指すべき方向が決まっていれば、決して
迷うことはないのです。




いつの時でも、この「どんな」の中に入るべき、
または選ぶべき「こたえ」は、ある特定の波動を
持つフィールド、ある周波数帯域に存在するのです。



その方向、そのフィールドこそが、
「愛」なのであるということ。





「しあわせのコンパス」とは、
常に「愛」の方向を指すのです。



あなたの心を、「しあわせのコンパス」の指す方向に
常に向けてください。



そして、「しあわせのコンパス」は、
あなたがこの宇宙に創られた時からずっと、
あなたの魂の中に、埋め込まれているのです。







生きとし生けるものが、しあわせでありますように。