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「しあわせのコンパス」こころへの旅44
2011年4月17日 日曜日 午前6:30
おはようございます、KENです。
いつの間にか桜が満開になって、春の風に花びらが舞っています。
わが家の軒先では、ツバメのつがいが営巣をはじめています。
ずっと寒い日が続いていました。
震災後も被災地ではずっと氷点下に見舞われていました。
そんな時、津波に洗われて建物が流されてしまった広野に、
一本の梅の木が花をつけている映像が流れていました。
それを眺めながら
「何かホッとします。がんばろうって、元気をもらいますね。」
と、被災地の方の顔がほころんでいました。
* * * * * * * * * *
いつもと変わらず春が巡り来て
いつもと変わらず花が咲く
いつもと変わらず陽の光がそそぎ
いつもと変わらず雨が降る
いつもと変わらず風はそよぎ
いつもと変わらず川は流れる
いつもと変わらず地球は回り
いつもと変わらず星は巡る
いつもと変わらず・・・
それがどんなに幸せなことであるのか。
それがどんなに「なくてはならない」ことであるのか。
「ありがたい」
とは、そういうこと。
「ありがたい」とは、
「有り難い」であり、「在り難い」であり、
本来それは、「当たり前ではない」という意味です。
「ありがとうございます」
感謝をするということは、
私たちが当たり前に生きていられることが、
決して当たり前ではないのだということに気づくこと。
この宇宙全てが「有り難い」バランスの上に成り立っていて、
私たちもそのバランスを構成する一員であるからこそ、今ここに
存在していられるのだ、という事実に胸を熱くするということ。
私たちは大自然(宇宙)の一員であり、それ以外の何物でもない。
梅が咲くのは、「大自然の一員としての自分」をただひたすら
表現しようとしているのであって、他に目的などない。
私たち「人間」が、この宇宙の大自然の一員として、
ただひたすら表現すべきことは、「愛の花」を咲かせること。
他に人生の目的も存在意義もない。
梅や桜や藤が、それぞれの個性豊に咲き誇るように、
私たちもまた、個性豊かに、それぞれの想いの中に、
それぞれの行為の中に、「愛」を表現してゆくのです。
ちょっと想像してみてください。
もし、この世界に花が「梅」だけしかなかったら?
もし、この世が女性だけの世界だったら?
もし、60億の人類がすべて「自分と同じ」だったら?
この世界は美しいだろうか?
その世界は楽しいだろうか?
そんな世界を好きになれるだろうか?
色とりどりの、たくさんの種類の花が咲くから、
美しいのでしょう?
男だけではむさ苦しすぎるし、第一張り合いがないよ。
まして女だけだったら、恐ろしいじゃないですか!?(爆)
いくら僕が女好きでも、そんなの絶えられない。。。
男と女がいて、人それぞれ興味が違い、感じ方が違い、声が違い、
顔かたちが違い、背の高さが違い、そう、個性が違うからこそ、
この世界が楽しく素敵になるのではないのでしょうか?
それぞれの個性が違うからこそ、その表現もまた個性的に
なるのであって、絵画も音楽も文学も、バラエティに富めばこそ
私たちは自分の個性に合うものを選び、楽しむことができる。
ですよね?
そして、その60億の個性それぞれが、それぞれの「愛」を
表現した時に、この地上が、この地球がどんなに素敵な花園に
なるかってこと、想像しただけでワクワクしませんか?
□ ■ □ ■ □ ■ □ ■ □
これからの時代。
私たちは、このワクワク感をいつも胸に灯し、一人一人が
争いのない、互いに愛し合い助け合い、そして生かし合う
世界を創ってゆく、その担い手として生きることを選びたい。
地球人類みんなが仲良く暮らすイメージを心に浮かべた時、
その描かれた世界、そのイメージを「愛の国」「地上天国」と
呼んでもいいと思うんです。
そして、その未来の地球の素敵なイメージを「心のともし火」として、
常に掲げてゆくことこそが「愛」であり、そのともし火を守ることこそが
全ての「愛ある行い」の原点になるのではないのでしょうか。
このイメージ、まさにジョン・レノンの「イマジン」の世界を
思い描くことにワクワクする気持ち。
その世界を心から希求する想い。
それを「愛」と呼べるのなら、それが「愛」の原点になるならば、
何かこう、変に構えて「こうすべき」とか、「こうしなきゃ」とか
義務感ではなくて、自然体で楽しくいけそうじゃない?
愛の対象をこれまでの家族や友人知人だけでなく、
もっともっと広げていってさ、
人も街も国も、草も木も森も、海も山も川も、
虫も魚も動物も、月も惑星も太陽も、銀河も星雲も宇宙まるごと、
み~~~~んなが、互いに愛し合い、助け合い生かしあってる
争いのない平和な世界の仲間なんだ、という意識の中で互いに
溶け合えたら最高に素敵じゃない?
あなたも私もなく、大自然との一体感、大宇宙との一体感の中で、
大いなる安らぎと、永遠の命と、永遠の時を与えられ、ただただ
愛の存在として愛に生きる「私」となった世界が訪れる・・・
それは、私たちの魂に分け与えられた「愛」が、言い方はいろいろ
あるけど、創造主の、根元神の、一なる存在の、宇宙神霊の想い、
宇宙意識の大きな愛の奔流に、再び還ってゆくことを意味します。
愛は分け隔てをしないのです。
愛は調和であり一つであるということ。
愛一元の世界が、本来の宇宙の姿であるということ。
ですから、その宇宙から分けられた、私たちの魂の持つ愛も、
本来、分け隔てをしない、全てをいとおしみ慈しむ光であり、
エネルギーであるということを思い出さなくてはならないのです。
自分がかわいいだけでは愛とはいえない。
自分の子どもだけかわいいのも本来の愛ではない。
自分の考え方と同じ人だけが好きなのも愛ではないのです。
こうしてみると、私たちは随分と狭い範囲しか「愛」の対象に
していないことがわかります。
言い方を変えれば、「愛する」とは、自分の身近な者に対しては
積極的に用いることができるけれども、赤の他人や人類全体、まして
物質界、自然界への愛なんて、形だけの表現だと感じてしまいますよね。
私たちは、いかにこの固定観念を取っ払い、愛の枠組みを
拡大してゆくことができるか、というのがこれからの課題と
なってゆきそうです。
虫や動物が苦手、嫌いというのでは本当の愛ではない。
食べ物に好き嫌いがあるなんて、愛からは程遠い。
自然を破壊し、空を汚し、海を汚すなんて愛のカケラもない。
まして、同胞を、兄弟を殺すために核兵器を開発し保持するなど、
もはや悪魔の仕業としか思えない。
なぜなら、「愛」以外に「正義」はないのであるから。
私たちの日常生活の一コマ一コマに、愛に反する思いや行いが
たくさん散りばめられてきたことがわかるでしょう。
(金融商品に仕組まれた「サブプライムローン」のように。)
そして、今の世界がいかに愛のない世界であるのかも。
(やがて「リーマンショック」のように、愛なき世界が
瓦解し消滅することが目に見えるようです。。。)
だから私たちは苦しむのです。
全ては自分に還ってくるのです。
人類のしたことは人類に還ってくる、それだけのことです。
何度も言いました。
神は、宇宙は、裁かない、と。
なぜなら、宇宙の根本法則である「愛」に反するものは
かならずその報いを受ける「因果律」から逃れられないからです。
結局、不幸や不運や病気や災難というのは、
「自分で自分を罰している」、ということなのです。
「因果応報」それだけのことなのです。
「自己責任」とは、そういうことなのです。
いくら他人のせいにしても、自分は悪くないと言い張っても、
自分のしたことに対して責任を負うのは、自分自身なのです。
愛を行えば愛が還ってくるし、悪を行えば悪に巻き込まれるし、
相手を助ければ助けてもらえるし、偽善を行えば偽善に苛まされる。
善悪は関係なく、
ただ、撒いた種を刈り取っているにすぎないのです。
ある意味、すっごくシンプル。
単純な法則なのです。
学歴とか、資格とか、性別とか、年齢とか、一切関係ないんです。
不幸にならないためには、
ただただ「愛」に生きればよいということ。
他に方法などないのです。
あなたの嫌いなもの、苦手なもの、それらも含めて「全て」を
いとおしく思い、慈しむことができてこそ、本来の「愛」なので
あるということ。
さあ、どうでしょう。
これからの課題が見えてきたんじゃないですか?
どうしたら、嫌いなもの、苦手なものを、いとおしく思える
ようになるのでしょうか。
どうしたら嫌いな相手、苦手な相手を、いとおしく思える
ようになるのでしょうか。
実は、私たちが本来の「愛」の意識を魂に宿していながら、
愛を体現することを妨げているものが、実は、私たちの内部に
あるのです。
この障害があるために、なかなか人は愛に生きられないし、
宇宙を統べる愛の奔流に身を任せることができないのです。
つまり、病気になったり、人生思い通りにならないと言って、
幸せを実感できずにいるのです。
さあ、この障害とは、あなたは何だと思いますか?
あなたの愛を阻むもの。
そう、前回申し上げた、忍者屋敷の隠し扉です。
かなり手強い障壁です。
これがわかったのなら、長かった「こころへの旅」も、
「幸せな世界に生きる」というゴールに、一気に近づくことに
なります。
だって、あとは、その障害を取り除くための道を、
具体的な実践を通して歩んでゆくだけですから。
この私たちの中にある障害を乗り越えたところに、
地上天国が開けているのです。
忍者屋敷の壁(隠し扉)の向こうに、ね。
生きとし生けるものが、しあわせでありますように。