おはようございます、KENです!


今日もこうしてあなたにお会いできたことに
心から感謝します。


昨日の運動会、予定通りにスタートしました。
午前中のプログラムを終えて、お昼を短く切り上げて、
30分前倒しで後半戦がスタートしました。


そして2年生の学級対抗リレーが始まろうとしていた、
まさにその時、いきなり激しい雨が降ってきたのです。


それ以降、運動会はできなくなってしまいました。



ある時を境に、それまでとは全く違う世界になる・・・
そんな瞬間を目の当たりにしました。


だから、
だからこそ、


この一時、今あるこの時に、悔いを残さないように
しなければならないのだと、痛切に感じました。



子ども達は、そんな親の思いを知ってか知らでか
元氣いっぱい、力の限り運動会を満喫していました。


この続きのプログラムは、水曜日に持ち越しだそうです。
実は、彼らの戦いはまだ終わってはいない・・・(笑)






■過去記事の再掲載をお送りしています。
 しあわせのコンパスを見失わないために・・・



福島第一原発から見えること 4

2011年4月9日 土曜日 午前6:30





おはようございま~す! KENです。
 
前回はプライベートな話題で失礼いたしました。


でもね、生きるか死ぬかの瀬戸際の時なら互いに寄り添い、
抱き合えるっていうんならさ、普段からそうあってもいいんじゃ
ないかなって、僕なんかは思うんだけどな。



いや、ベタベタしろってんじゃないんですよ?
喧嘩したりいがみ合ったり、互いに批判し否定し合い、もうさ、
ダメなところの品評会みたいなこと、やめようよってこと。



そんなこと、大自然の前ではホント、どうでもいいこと。
一瞬で何もかも全てが波に呑み込まれてしまうんです。


「はい、おしまい~」って積み木をガ~って崩すみたいに。



そんな時までいがみ合ってるなんて、ばかばかしいとは
思いませんか?



駆け出しの芸人さんが一生懸命コントしてる時に、
幕が下りてきちゃうみたいなもんです。



「はい、それまで~」って。
「つまんねぇからヤメロ~~」って。

それって悲しいじゃん。



いっぱい笑ってもらって、たくさんの拍手を受けながら、
「え~? もう終わりなの~~?!」「もっと見た~い!」
「おもしろかった~~!」って言ってもらいたいよね。



「あの時、あんなこと言わなきゃよかった。」
「ごめんなさい」の一言、「ありがとう」の一言、
言えずじまいでずっと後悔するよりはさ、


たとえ最後の時であってもさ、
「あなたと一緒でよかった♪」って。


お互いに笑顔でいられたら、
幸せなんじゃないかのかなぁ?



まぁ、理想ではあるのかもしれないけれどね。




あ、でも最後の最後に気づければ、それでいいのかもね。



そのためのいがみ合いであり、喧嘩なのかもしれないけどね。
で、来世では「もうそんなことはしない」と決意できれば
魂的には成長できるのかもしれないね。



でも、そう気づけなかったら、ホントバカバカしい。
次の転生で、また課題のやり直しだね。
(またまた、いがみ合いの人生が繰り返されるのか・・・)



なんだかブツブツ独り言みたいになってしまいました。
すんません。







話は変わるけど、
以前、森村誠一原作の「人間の証明」をTVドラマ化したものを
竹之内豊メインでやってました。


彼、いい味出してますよね。
好きな役者さんです。




これ、さらにむか~しに映画化されたときに、
「母さん、あの黄色い麦藁帽子どこへいったんでしょうね。」
ってフレーズあったの覚えてるんだけど、流行りましたよね?
(黄色くなかったっけ? 知ってる方、僕と同年代以上 笑)



たぶん小学校高学年か中学1年くらいの時だったと思うなぁ。
話題だったから、せめて原作の文庫本でも読もうと思って、
買ったはいいものの、ものすごく分厚くてすぐ挫折しました。



それはともかく、TVドラマはある意味ダイジェスト版ともいえる
だろうから、その映像から見える全体の流れは、一見何の関わりも
ないように見える複数の事件が、ある一点に結びついてゆく。



その一点とは、主人公がそのために刑事になったとも言える
「親の仇」の手がかりと、複数の事件の手がかりとが、奇妙な
一致を見せてくる、接点が出てくるのです。そしてついに・・・



ネタバレになっちゃうんでドラマの結末を知りたくない方は
この先読まないでね。




複数の事件それぞれが、「人間の証明」という課題を持ち、
それぞれが、その応えを出してゆくというところも、「接点」と
言えるかもしれません。



築き上げた地位や名誉を失うことになろうとも、最後には
私生児ではあるけれども血を分けた息子を守るために、一人の
母の姿にもどった大物政治家の妻。


たとえ相手が不倫相手だろうが間男だろうが、あるいは、捜し
求めて来た親の仇であろうが、その相手が窮地に陥っているのを
見た時、葛藤はありながらも、やはり最後は手を差し伸べる・・・



それが人間じゃないのかって、
それが人間であることの証明なんじゃないのかって、
そんなことが描かれていたと思うんです。






人には「良心」というものがある。
「愛」というものが必ず心にあるのです。
見えないけれどね。



そして、それが「究極の選択」として神様に試されるのです。

「お前は人間(ひと)の心を持っているのか?」と。
「ならば示してみよ。」と。







前々回の最後に「シビアな話」の予告をしました。
前回は、ワンクッション入れさせていただきました。



今日これから、あなたに、ある意味究極の選択を迫る場面が
でてくるかと思います。



でも、安心してください。
それは、今、あなたに起きている現実ではありません。



ありませんが、「その時」のことを考えておくことは、
最強のメンタルトレーニングになるはずです。



人生に迷わない。
生きることに迷わないために。




では参りましょう。





 □ ■ □ ■ □ ■ □



東日本大震災後の被災地の方へのインタビューを見た時に、

「みなさんのお気持ちがありがたいです。」

「もう、命があるだけで十分です。」

「一日でも早く復興できるよう頑張ります。」


みなさん、そんな風に応えていらっしゃいましたよね。
しかもキレイな「標準語」で。

淡々と。




でも、内心どうでしょう。
「お先真っ暗」なはずでしょう?



どう考えても、明るく考えられる要素がないんです。
「生きている」ということを除いては。



そして、そのせっかく助かった命も、持病を抱えた
お年寄りには大変過酷な避難所の生活環境の中で、
ポツリポツリと火が消えてゆく危機的状況が続いています。



被災したみなさんの本心やむき出しの感情は、
なかなかカメラの前では出てこないのです。


それが、日本人のたしなみでもあり、心配りであり、
礼節でもあり民族性でもあると思うのです。



でも、身内や気の置けない者どうしでは、「方言」の中で、
不安や悲しみや憤りや、様々な感情も、きっと吐き出している
ハズですよね。



「自分が被災者だったらどうだろう」と自問してみれば
よく分かると思うんです。



このように、「報道」にも「伝えきれていない部分」あるいは
「伝えない部分」が必ずあると思うのです。



もちろん、報道が“伝えている部分”も、真実には
違いないのでしょうけれど。




 * * * * * * * * * * *






実は、先日、車でラジオを聴いていた時にこんな話を
耳にしたのです。



「津波が来るので避難所に逃げたお年寄りが、
 中に入れてもらえなかった・・・」





「え ?」 

「どういうこと???」


僕は意味がわかりませんでした。




宮城や福島の海岸地帯に点在する避難所を、ラジオ局の記者が
訪れ、住民のお話を聞いて歩いておりました。
そのピンポイントのレポートから見えてきたことです。




それは、こういうことだったのです。




避難所に指定されている高台の建物に行くと、
既にそこは満杯で、「他の避難所に行くように」と言われて
追い出されてしまった。




それが悲劇を生んでしまいました。






一旦は避難所に着いていたお年寄りたち。



ところが、入れないためにそこをあきらめて、
次の避難所を目指しているところを津波が襲ったのです。



避難所のある高台からその光景を目の当たりにしていた方々。
恐らくご自分たちを責める気持ちに苛まされることでしょう。



「しかし、そうでなければ自分がやられていた。仕方がない。」
一方では必死に自分に言い聞かせていることでしょう。



いいも悪いも恐らくないことなのでしょう。
誰も責められる状況にはなかったのも事実でしょう。



しかし、そこには明らかに二つの意味で「無智」が存在します。
あなたは何だと思いますか?








ひとつは、「避難所とは何か」を「知らない」ということ。


もうひとつは、「しわせのコンパス」でずっと言ってきている
人間の本質とは何かを「知らない」ということです。





三陸地方の方々は、チリ沖地震の教訓から、「揺れたら避難」は
徹底して訓練してきていたと思うのです。



少なくとも意識の中で、「地震→津波」と誰もがそう連想できる
状態であったはずです。
特にお年よりの中には、前回を生き抜いた方々もいるわけです。



だから、強い揺れが来た → 津波が来るぞ → 高台へ避難
誰もが言われなくてもそのように行動できたハズです。



地元の消防や役所の広報も、繰り返し繰り返し避難を呼びかけ
続けていました。



それは、津波から逃れるためです。
津波から逃れられればいいのです。
そのための「避難」だったハズですよね。




ところが、避難してきたのに、「もういっぱい」とは
どういうことでしょうか。



結局、避難所に避難してきた人々が、自分たちの
「居住スペース」を確保していったために、「もういっぱい」に
なってしまった、ということのようです。



「一時避難場所」つまり「とりあえず避難する場所」であって、
「いったんそこにみんなで集まる場所」として決めてあった
場所のハズなのです。



「居住」は、地震が収まって、津波が収まって、身の安全が
確保できてから考えても遅くはなかったのです。



それからなら、「居住」のために他の場所へ移る事も
ある程度時間的に余裕を持ってできたのではなかったので
しょうか。



ところが、今まさに津波が押し寄せてきているその時に、
足腰の弱いお年寄り達が、歩みも遅いお年寄り達が、
今上ってきた道を引き返して行ってしまった・・・



そんなことが起きていたというのです。
なんともやりきれない気持ちになります。





そんな話を、夕食をかこんで話していたときに、おじいちゃんが
(私の父ですが)子どもの頃の話をしてくれました。




 * * * * * * * * *




太平洋戦争当時、父は小学校3~4年生ぐらいだったそうです。
戦争も終盤になると、B29による本土への爆撃が始まりました。



灯火管制といって、家の灯りが外へもれないように電球の周りに
黒い布をかぶせたり、小学校の校庭にも高射砲(敵航空機を打ち
落とすためのもの)が設置され軍人も常駐するようになりました。



夜になって、「空襲警報」が発令されてサイレンが鳴ると、
みんなで防空壕へ避難するのです。
といっても、近くの側溝に身を寄せる程度だったらしいですが。




その時に、実は前述の「津波警報」の事例と同じようなことが
起きていたというのです。



防空壕って狭いんです。
ですから、スグにいっぱいになってしまいます。



そうすると、後から行った者は「もう入れない」と
言われるのです。
この場合は「物理的に無理」ではあるのでしょうけれど。



そこで仕方なく、近くの道端の側溝の中に入って、
身を低くして敵機が去るのを待つわけです。



ところが、父がこの側溝に入ろうとした時に、

「お前はダメだ! 出てゆけ!」

と、大人の男に怒鳴られたというのです。



その理由は、

「お前の服は白いじゃないか! 目立つから敵に見つかって
 みんなを危険にさらす。だから出てゆけ!」

というのです。



父は、「ああそうですか」と内心思いながら出てゆこうとした
時に、「坊、早くこっちへきなさい!」とかくまってくれた
方がいて、なんとか「避難」することができたというのです。




考えても見てください。



爆撃機は、高度1万メートル位を飛んでいるのです。
なにしろ、高射砲が全然届かない高さなのですから。
そんなこと、小学生でも知ってることでした。



そんな上から、「白シャツ」が見えますか?




父は小学生だったけれども、あまりにバカバカしい大人の態度を
見て、「日本は戦争に負ける」と思ったそうです。



まぁ、当時そんなこと言ったら、それこそどんな目に合わされるか
わからなかったから、言わなかったでしょうけれど。



子ども一人護ろうともしない、そんな世の中になっていたのです。





もちろん、「坊、早くこっちへ!」と抱えてくださるような
愛ある大人の方が、きっと多かったに違いないとは思いますけど。




自分さえ助かれば、相手を見殺しにしてもよいのか。
自分を護るためなら、子ども一人の命などどうでもよいのか。



極限状態に陥ったとき、
それでも「愛ある想い」で「愛ある行為」ができるのか、
問われることになります。





あなたは、どうありたいですか?
あなたなら、どうしますか?




あなたの「人間の証明」。
天は見守っています。







生きとし生けるものが、しあわせでありますように。