おはよ~ございます、KENです。
エジプトの反政府デモがムバラク大統領を追放し、
アラブ世界に飛び火して、独裁政権が倒されようと
しています。
インターネットやツィッターでの「つながり」が、
多くの人が同時に行動を起こすための大きな力になっています。
これは、ある日、一瞬で世界が変わることもあり得ることを
意味しています。
例えば、世界で同時に反政府デモが起き、世界統一政府が
樹立されることも、夢物語ではなくなってきたという実感を
持つのに十分です。
その時に大切なのは、民衆の力で政府をひっくり返した
として、じゃあどんな国のあり方、どんな世界を理想として
描いていたかが、実は一番重要なことではないのでしょうか。
「これって革命じゃん・・・」単なる抗議デモを呼びかけた
だけのつもりが、開けてみれば政府を転覆させていた・・・
でも、そこに新たな国づくりの明確なビジョンがなければ、
また別の者達が権力を握り、単に頭がすげ替えられただけで
終わってしまう可能性が高いのです。
「はじめに言葉ありき。」と聖書にあります。
神が天地創造する時に、はじめに言葉があったというのです。
言葉は、「想い」から発せられるものです。
つまり、「こうあれ」という想い、ビジョンが先にあって、
物事が形作られていくわけです。
「こういう世界が理想だ」というコンセンサスが地球規模で
出来上がった時に、その同じ夢を持った人々が、世界で
同時に行動を起こした時にこそ、世界が一瞬で変わります。
世界中の人々が、「赦し愛」「分かち愛」「生かし愛」を、
この星のビジョンとして共有した時、地球はアセンションを
クリアしているはずですね。
ワクワクします。

さてさてさて。
宇宙の万物には、「完全なる意識」が「分けられて」入っている
のだということ。
そのうちの一つが、私たちの「魂」でもあるというわけです。
「分霊(わけみたま)」という言い方もしますね。
さて、魂である「意識」は、こころを道具として使っている
のだと申し上げました。
そういう意味では、「意識」の現れたものが「こころ」の働きで
ある、という風にも言えます。
また一方では、肉体に付随する欲求が「こころ」を使うことも
あると、前回申し上げました。
ややこしいですね。
つまり、「こころ」を使う主体は誰なのかを、常に明確にして
おかないと、本能に支配され、操られてしまうことになるんです。
こころは、魂が使ってこそ、本来の役割が果たせるのです。
さて、こころの仕事は、「おもう」こと。
でも、「おもう」には、実はいろいろあります。
こころに何気なく浮かんだり、無意識に注意をひかれて「思う」。
相手や物事に意識を向けて、思い浮かべて、そのことを「想う」。
明確なイメージを持ち、願いを込めてハッキリ強く強く「念う」。
自分の意識を集中すればするほど、その「おもい」には、何か
エネルギーが乗り、「おもい」のパワーが強くなるように感じ
ますよね。
「お~、キレイな人♪」なんてジ~ッと見とれてると、向こうも
気がついて、こっちを見返してくることがよくあります。(笑)
要は「意識する」と相手が気づくぐらいの、何か、ビームみたいな
ものが出てるんじゃないかって、思ったことないですか?
「こっち向け!」って念じたら、本当にこっち向いた! なんて
こと、あなたも経験ありますよね?
だからね、神様が「意識」で天地創造してる、とまでは納得いかなく
ても、でも「意識」というものに、やっぱり何か「力」があるんじゃ
ないかって、僕なんかは思うわけです。
そういう意味で、「意識の力」を信じているのです。
さあ、そんな身近な現象も踏まえながら、究極的には、神の愛とは
いったい何なのか、神の愛の本質に、無謀にも迫ってみたいと思う
わけです。
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前回は、「愛想」ということについてちょこっと触れましたよね。
文字どおり、「愛の想い」であると。
この「愛想」には、ものすごい力があります。
たとえば、親が子どもに愛想をつかしたとき、子どもは死んで
しまいます。
よく、動物園で出産に成功したものの、親が子どもの世話をしない
ケースがあって、飼育係の人が一生懸命親代わりをして育てた、
なんて話を聞きますね。
もし、飼育係が助けなければ、生まれたばかりの赤ちゃんは
その短い生涯を閉じることになってしまいます。
かろうじて、飼育係の「愛想」によってつながれた命であっても、
今度は群れに戻すのに一苦労するわけです。
動物には動物の社会があって、親が子育てを放棄した以上、
やはり親代わりに受け入れてくれる「愛想」を持ったメスが
いないと、やはりその社会で生きてゆくのは難しいのです。
ところが、昨今は、動物園だけでの話ではなくなってしまった。
なんと、人間の世界でも、この日本でも、親が子育てを放棄する
ようなことが起きるようになってしまいました。。。。
大阪の方で悲しい事件がありましたね。
マンションの一室で、幼子二人が餓死していたという・・・
幼児虐待、孤独死、自殺・・・ 現代社会における、無関心や
愛情の慢性的欠乏症による悲惨なニュースが後を絶ちません。
どうしてこんな社会になってしまったんでしょうか・・・
自身に宿る愛も知らず、その現し方も愛され方もわからず、それ
ゆえに、愛されていることにも気づけない、愛を見失ってしまった
病んだ社会が、命の火を、尊い光を消して行ってしまう・・・
この「愛の欠乏」が「相手の存在を消す」という現象は、
もっともっと身近なものの中にも、その神理が隠されていることを
教えてくれます。
例えば、「愛着」ということば。
「愛」という文字がが入ってますね。
「(誰かの)愛が、(そのモノに)着く」とも、
「(そのモノが)愛を着ている」とも取れる言葉です。
例えば、子ども達が夢中で遊んでいたオモチャ。
やがて歳が行き、もう遊ばなくなってしまうと、いつの間にか
" なくなってしまう " ってこと、経験あると思うんです。
つまり、
「意識」に上らないものは、「存在しない」ことと同じなのです。
でも、実際は家のどこかに、そのオモチャは「ある」わけですよね?
「ある」のに無い。
「無い」のにある。
どこかで聞いたようなフレーズだと思いませんか?
そうなんです。
実はこれが、「色即是空 空即是色」の意味するところの真実の
世界なのです。(これを「神の意識」の視点で言ったもの。)
「色」というのは光に映し出される物質世界のことを言うのです。
「空」というのは、無意識の世界とも、あるいは光の素で満ちた世界
とでも言いましょうか。
例えば「精神の世界」は、この3次元世界で物質として見えないからと
言って「無い」わけではなく、逆に物質として見えているからといって、
それだけが「実在」あるいは「真実」であるわけでもない。
我々の認識できる「色」というのは可視光線、つまり虹の七色の波長の
範囲の波動であるけれども、赤外線の外側、紫外線の外側にはそれぞれ
次元を超えて無限の広がりを持った「色」=光の世界があるということ。
それらの波動とは、粒子であり波であるから、その波の本体である
「光の素」と、その波が生じ伝わる為の媒質(海の波なら海水に相当)が
宇宙空間に存在しなければならない。
結局「色」として現わされる「物質」とは、宇宙に満ち満ちるその媒質の
海=「空」が、ある決まった振動の元に寄り集まり映し出されたものであり、
私たちの「想い」もまた、「空」の中に生まれる「色」に他ならないのです。
ややこしいですね。
まぁ、般若心経の「空」とは、「空っぽ」とか「何も無い」という意味では
ない、ということだけ押さえておいてくださいね。
目に見える「色」の世界のオモチャも、材料、分子原子のレベルで考えれば
肉眼では「見えない」世界が厳然として存在し、さらに素粒子の世界になれば、
全てが雲散霧消しながら存在する「空」の世界が現れてくるのです。
物質を根元までつきつめてゆくと、最後にたどり着くのは
無限なる空の世界なのです。
そして、実は現代科学の最先端、「量子論」の世界では、なんと
実際に、この「無意識の世界」が観察されているのです!
(意識を向けて)見ると、そこに「在り」、(意識を向けて)見て
いないと、住所不定・行方不明になる素粒子の世界・・・
このことは、何を意味するのか。
物質を構成する根元の素粒子は、実は「あいまいな存在」だと
いうのです。
素粒子には、観察者が意識して見ると、収束してそこに「あり」、
意識していない時は雲散霧消していてどこにも見え「ない」、
という性質があるのです。
これを「不確定性の原理」といいます。
別な言い方をすれば、素粒子は「確率的な存在」だと
いうのです。
わけわかんないでしょ?
つまり、『ある場所で素粒子(例えば電子)が観察される確率は、
○○である』と表現するしか表しようのない「存在」なのだと、
いうことなんです。
言って見れば、誰かがサイコロ振って、出た目によって、
その時はたまたま、運良く?「存在する」ことができる???
と、いうことは、ですよ?
よろしいですか?
一気に飛びますよ?
ついてきてね?
「私たち」は、様々な原子や分子からなる物質からできています。
そして、原子や分子は素粒子からできているのです。
ってことはですよ? 素粒子の集合体である「私たち」も、
観察者である " どなたかの " 意識に左右されて、
実は、「あったりなかったりする存在」なのではないのか・・・
と、考えることはできないでしょうか?
言ってる意味わかります?
物質を構成する根源の素粒子が、「不確定性の原理」に支配
されているということは、その集合体である「私たち」もまた、
同じ法則に支配されていると考えてもおかしくないのではないか。
「私たち」が、素粒子の世界、つまりミクロの宇宙にとっては
巨大な観察者であるように、
その素粒子の集合体である「私たち」をも、ミクロの世界として
観察している、さらに巨大な”観察者”がいてもおかしくない
のではないか。
もっと言えば、素粒子のさらに巨大な集合体である地球や太陽や、
銀河や星雲を含めたこのマクロの宇宙さえも、ミクロの世界のご
とく観察している、無限に巨大な"観察者"がいるのではないか。
その、無限に巨大な"観察者 "のことを「神」と、「創造主」と、
言っているのではないか。。。
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私たちは、原子や分子を組み合わせて、様々な物質を創り出す
ことができます。
私たちの本質がエネルギー体、魂であることを考えれば、
無限に巨大な観察者たる「神」もまた、無限に巨大なエネルギー
体であり、物質を合成して星々を創り出すなぞ朝飯前なのだと。
かつて、NHKで「小さな小宇宙・人体」というタイトルの
ドキュメンタリーが放映されたことがありました。
ご覧になった方もおられるでしょう。
ミクロ・コスモスとよばれている私たちの体、その体内では、
おびたただしい数の物質が合成され創造されており、それらは
ホメオタシスという秩序の元に新陳代謝を繰り返している。
この宇宙、マクロ・コスモスにおいても、太陽系、銀河系、星々の
美しい秩序ある運行の中にも、それぞれの一生があり、新陳代謝が
あり、おびただしい数の物質が生成消滅を繰り返している・・・
大宇宙とは、さながら私たちの体内、ミクロ・コスモスと同じく
神秘と、秩序と、命の鳴動に満ち溢れた、ダイナミックな世界で
あり、まさにそれは「神の体内」であると言えないでしょうか。
と、まぁ素粒子の話を無限に拡大していったら、そういう風にも
言えるかなぁと思うわけです。
で、「観察者」とか「神」っていうと、どうしても「人格神」を
イメージしてしまうので、「ワンネス」とか「一なる存在」とか、
今時の精神世界の用語の方が、しっくり来るということでしょう。
はい。
最先端の科学とこころと神様の関係、おもしいでしょ?
今、本当に近接しているのです。
僕はもう、ここで強引に結びつけてしまいましたけど(笑)
でも、物質を突き詰めていっても、こころを突き詰めていっても
どの道「根元なるもの」に行き着いてしまうしかないのです。
それを「神」と呼ぶかどうか、でしかない。
呼び名なんて、大したことじゃないじゃない。
「見えないもの」を認めて、信じてゆくしか、
その先へは進めないところまで来ているのです。
後は、お互いがそれぞれの殻を破って、
「ひとつ」になれるかどうか。
さぁ、まずは夫婦や恋人どおし、お互いの殻を捨てて、
見えない愛の力でひとつになってみるのはいかが?(笑)
では、よい一日を!
生きとし生けるものがしあわせでありますように。
愛と感謝を込めて
KEN