おはようございます、 KENです。
さてさて、毎度「番外編」におつきあいいただき、
ありがとうございま~す。
前回、面白いテーマが出てきたので、せっかくの機会だから、
僕なりの見解を述べてみたいと思って、今日またお邪魔して
おります。
よかったら、おつきあいくださいね。
そして、ぜひ、あなたも考えてみてください。
それでは、昨日の続きから。
_________________________________
>クリシュナ・・・ クリシュナ・・・ なんか聞いたことある。懐かしいぞ。
何だろう・・・
クリシュナは、インドの神話に出てくる英雄でしたよね。
ヴィシュヌ神の化身ともいわれる。
実は、神話に登場する神々というのは、ギリシャ神話の神々にしても、
日本神道の神々にしても、その多くは、かつて地上に肉体を持ったことの
ある「実在の人物」なんですよね。
神話の世界というのは、やはり「人間離れしている」物語が数多く
語られているわけですが、それが、少なくとも「火のないところに煙は
立たない」とするならば、元となる実話があり、実在の人物がいた、と。
もちろん、「神格化」されて、デフォルメされて、脚色されているだろう
けれども、どうでしょう、逆に言えば古代の人々は、神ととても親密な
関係であった、神との交流が生活の中にあった、とは言えないでしょうか。
この場合、神というのは「天上界の諸霊人」という意味です。
人格を持った「神霊」ですね。
そして、シュメールや古代ペルシャなどの古文書には、「有翼円盤」のモ
チーフが出てくるのですが、ゼカリア・シッチンなどの研究者は、これは
明らかに、地球外からやって来た人々のシンボルだと言っておりますね。
古代文明や、あるいは伝説のムー、アトランティスなどは、人と神霊と
宇宙人とが自由闊達に交流し、高度な文化・文明が花開いた、古きよき
地球時代(笑)であったのかもしれませんね。
エジプトのピラミッドは、ムーの技術で造られたようです。
どんな技術か知ってます?
「反重力装置」と「念動力」ですって。
つまり、あれだけの巨石を、重力を打ち消す装置に乗せてフワリと浮かせ、
後は、念動力で思い通りの場所に運んで積み上げたのだ、と。
イースター島のモアイ像なんかも、そうなんでしょうね。
ってことは、あの辺一体に、ムー大陸は広がっていたのかな。
あはは、すんません。
つい、余計なことまで。
僕は、この手の話、大好きなものですから。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
>ホメオパシーでね、前世からのカルマのレメディってのがあるの。
代替医療として華々しく登場した「ホメオパシー」の話が出ましたね。
昨年はちょっとした事件になってニュースになったことがありました。
医学界はこのときとばかりに「絶対に認めん!」と息巻いてましたっけ。
ホメオパシーについては、僕も日頃感じてることがあるんです。
必ずしも、ホメオパシーの全てを正確に理解し把握しているわけでは
ないので、見当違いなことを言うかもしれませんけど、せっかくの
機会なので、僕の持論を述べさせていただきたいと思います。
まぁ、ホメオパシーの原理も言ってみれば「波動共鳴」の原理を利用して
いるのであって、一番大切なのは、前提として「自分の波動を正常に保つ」
ことがなくては、いかんのじゃないかと思うんです。
つまり「心」を健康に保った状態で処方を受けないと、思わぬ反動が
起こらぬとも限らないということなのです。
体に病が出ても、心までは病ませないということ。
そうでないと、自分の波動が安定してないところへレメディを入れると、
波動の干渉が起こり、本来、自己の強い波動で弱い波動を吸収していける
ものが、逆に自分の波動を乱されてしまうことが起きると思うからです。
振動体であり、エネルギー体である肉体に対して、「波動」というものを用
いるのは、これまでの医療にはなかった、ある意味、本質的なアプローチで
あり、非常に有効な手段になり得るとは思います。
しかし、だからこそ、波動現象の正しい理解なくしては、今の段階では
多くの誤解を招き、また実際の物理的影響がマイナスに働くケースも
報告されているところを見ると、諸刃の剣だとも言えると思うのです。
波動という観点で見るならば、例えば「薬」に必ず副作用があるというのは、
薬の波動でとにかく病巣の波動を打ち消して、その症状を見かけ上なくして
いるだけなので、つまり対症療法なので、病原は依然そのまま残るわけです。
逆にその薬の持つ固有の波動が、他の部位への干渉を起こしてしまいます。
本来、正常な波動を持つ部位が、薬の波動によって干渉を受け、正常な
波動を乱されるがために新たな問題が起こる、というのが副作用なのです。
そうすると、その副作用を抑えるために新たな薬を投入すれば、またその
薬の副作用が生じ・・・と、薬がドンドン増え、副作用もドンドン増える
という、「病院に行って病気になる」ような悪循環が起きてしまいます。
それに対して、ホメオパシーは、病巣の持つ波動と共鳴させることにより、
潜在的に記憶しているその病原を今一度浮き上がらせ、顕在化させて、自己の
自然治癒力によって、病原の波動を自己の波動に吸収させていくわけです。
従って、本来の自然治癒力が発揮できない体内の環境では、つまり自立神経
の失調であるとか、ストレスであるとか、悩み心配のある状態では、レメディ
で喚起された病原の波動が、思わぬ悪さをすることがあり得ると思うのです。
ですから、処方する側も受ける側も、「波動」というものの特性をよく理解
された上で、例えば、東洋医学のような、自然治癒力を高める方法も併用
しながら、処方の精度を高めていく必要があるのではないでしょうか。
まぁ、でも考えてみれば、振動体の記憶する一人一人が全て異なる膨大な
種類の波動の中で、その因果の分析によって、病気の諸症状に対し、いかに
病原となる波動を特定していくのか、気の遠くなるような話ですよね。
でも、そこが一番キモだと思うんです。
その因果関係があいまいな状態で、「こんな症状にはこれを」と渡される
ものを、果たして信頼できるものなのか否か。。。
しっかり検証されてゆく必要があるでしょう。
そして、その地道な因果の検証データの蓄積をもってしか、今後さらに
処方の精度を上げていく方法はない、ということではないでしょうか。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇
それから、医療関連で気になっているのは、「脳死」と「臓器移植」の
問題です。
これはですねぇ、再三このブログでもお伝えしているように、私たちの
本質は「魂」である、という理解なしには、手をつけてはいけない領域
なのではないか、と思うのです。
どういうことかというと、以前TVのドキュメンタリーでやっているのを
見たことがあるのですが、あなたも聞いたことがあるかもしれませんが、
移植された臓器が、「ドナーの記憶を持っている」ということなんです。
そうとしか思えない、という事例が紹介されていたのですが、それは
こういうことだと思うのです。
つまり、我々が肉体生命を持つということは、同時にそこにエネルギーを
供給する霊体が合わさっている、そして霊体の意識として「魂」が、肉体に
宿っているということです。
臓器が生きているということは、そのエネルギー体、魂も、そこに一体と
なっているということです。
だからこそ、移植された後も、その本来の持ち主である霊体(の一部)や
魂も、そこにいっしょに存在している、ということなのです。
さて、ここで非常に大切なのは、魂とは意識でありますから、この意識が
「どのように思っているか」ということです。
自分の肉体の一部を移植されることを「どう思ってるか」ということ。
それを踏まえて移植手術を行ってる先生が、果たしていらっしゃるのか。
ホメオパシーの問題もそうですけど、移植の問題にしても、今、医学会に
おいて、「人間の本質」についての認識を新たにするべき時が来ていると
思うんです。
あはは・・・
すっげ~偉そうなことを言ってますね、僕。
でもね、あなたも感じてるんじゃないでしょうか?
こころと体と魂の関係を学べば学ぶほど、この本来、不可分な、
三位一体である振動体としての体のことを、考えないわけにはいかなく
なると思うのです。
脳死というものが、「倫理」というもに照らしあわされて判定され、
「倫理」の名の下に、臓器移植が行われている。
「倫理」ってなんなんだ、てことです。
もし、「魂」が、「俺はまだ生きてるじゃんかよぉ!」と叫んでいたら、
もし、取り出された臓器が、「やめてくれよ~」と叫んでいたとしたら、
それは「倫理上」どうなんだ、という話ですわ。
「やめて~」と叫んでいる臓器が、
果たして移植された方の体になじむと思えますか?
ということなんです。
伝わります?
そんなの、オカルトの世界だ、って思います?
結局、やはり全ては「愛」の名の元に行われなくては、
うまくいかないのです。
なぜなら、神の祝福が得られないから。
確かに、この臓器を移植すれば、この人の命は助かる、という状況は
あるでしょう。
だからと言って、一方では死ぬのを待っていて「よし、脳死だ!取り出せ!」
とばかりに、本人の承諾なしに勝手に臓器を取り出したら、やっぱ怒るんじゃ
ないですか?
「何するんだよ!」って。
だからこそ、生前の「意志」が尊重されるわけでしょ?
人としての「尊厳」を奪わない、という意味で。
でもそれは、当たり前のことです。
それが、「倫理」というものです。
問題はね、よろしいですか、「脳死」という状態が、「魂」レベルで
「俺は確かに死んだ」と思っているかどうか、ということなんです。
それを、医者が判定出来るのでしょうか?
そこがクリアーされない限り、脳死判定というもの、そしてその後の
臓器移植というものが行われてはいけないのではないか、と思うのです。
例え、ドナーが臓器の提供を生前に承諾していたとしても、実際に、「もう
この体は使わないから、どうぞ」と、魂が許可したそのタイミングでなけれ
ば、「ちょっと、まだ待って」って言ってたら、脳死判定アウトでしょう。
もし魂レベルで、「私は死んだ。この肉体を活かしてください。」と納得
している状態であるのならば、他から見ても、ハッキリとそれがわかるの
であれば、逆に、その魂の意志を尊重すべきではあると思います。
本人の魂が、「ぜひ、人助けに使って欲しい」と、あるいは親や身内が、
「自分の肉体を削ってでも、この子を生かしたい」と、愛ある想いの中で、
臓器の移植が行われたのであるならば、その「想い」ゆえに活きるのです。
ドナーとなる方の、心からの愛の想いがあってこそ、また、受け取る側に
心からの感謝があればこそ、その想いが、自己と他人との波動の違いを超え
て、拒絶反応を超えて、調和を生み出す力となっていく、と思うのです。
波動の観点でみるならば、自己と他人を区別するのは、その個体固有の
振動数の違いなのです。
振動体としての波動が、一人一人違うのです。
輸血にしてもそうですが、本来血液も、その個体独自の波動をもっています。
それが、輸血で誰かの体に入った時、その人の固有の振動数との違いによって
最初はやはり干渉が起こり、ショック症状が出るわけです。
手術をして、しばらくして症状が悪化したり、24時間がヤマだとかいう
のは、その輸血された血液が、自己の波動になじむかどうか、という問題が
あるからですね。
そして、やはり「献血」という愛ある思いで提供された血液だからこそ、
「生きたい」「頑張りたい」と心から願う患者さんの、力強い想いに包まれ
た、その人固有の肉体の波動の中になじみ、調和してゆくことができる。
そういうものだと思うのです。
お互いの波動の中に、その「想い」というものを共有していくのです。
だからこそ、移植がただ右から左へ、順番待ちに機械的に対応するのでは
なくて、やはりそこに、魂レベルでの交流があるのだということ、そして
愛の想いが調和を生むのだ、ということをしっかりと認識して欲しいのです。
医療の現場が、そのような愛の架け橋になっていく、そのお手伝いをする
のだ、という意識の元に、やはり「この方の思いをしっかりつなげさせて
いただく」という謙虚な気持ち、愛の想いで施術をしていただきたいのです。
医者が主役ではないのです。
「成功事例」の競争ではないのです。
「同胞を生かしたい」というドナーの想い、「患者を助けたい」という
医者の想い、「まだまだ生きて修行したい」という患者の想いが重なって、
愛のハーモニーが生まれてこその、助かる命なのではないでしょうか。
そして、それら3者が、「魂レベルで」思いを通じ合える時が来たのならば、
この臓器移植という聖域に人類は踏み込んでもいいのかもしれない、とは思
えるのですけどね。
魂の乗り船としての肉体を、どのようにメンテナンスするべきなのか。
「病気」を計画してきた者にとって、いたずらに延命されることが、
果たしてその魂にとって本当にしあわせなことなのか。
「魂から見て」という視点を取り入れると、「死」というテーマに関しても、
私たちのこれまでの認識、考え方を変えなくてはならないのかもしれません。
お互いに魂の修行をしている仲間として、お互いのために何ができるのか。
さて、あなたはどうお考えになるでしょうか。
________________________________
はい。
心とか魂の話を、何か専門家とか霊能者の話ではなくて、
下の者からというか、普通の一般の人の立場でざっくばらんに、
自由に議論する機会って、そうないんじゃないかなぁ?
恐らくね、10年前なら、ぼくもこんな話、まったく興味なかったろうし、
まして、メルマガに書くなんて「正気の沙汰じゃない」と本人が思うだろうし、
「変な新興宗教をやってるんじゃないの?」なんて勘ぐられるのがオチだった。
でも、今は違います。
人々の意識改革が、ものすごいスピードで起きているのです。
この1~2年が、ある意味、地球人類存続のための正念場なのです。
昨年のタイの暴動、そして今年に入ってエジプトの反政府運動に続き、
リビアではカダフィーの独裁政権も終わろうとしています。
人々が、「独裁」や「富の集中」に対して「ノー」を主張し始めています。
これまでの常識を疑い、既成概念を疑い、「本来の姿」を探し始めたのです。
そして一方では、そのような「不平等の是正」「大調和への働きかけ」を封じ
ようとする動き、アルジャジーラが暴露しているアメリカとパレスチナ暫定政
府の交渉記録や、ウィキリークスなどの暴露情報が「争い」を煽っています。。
また、経済においても、既にEU加盟国の一部が破綻寸前であるような世界
情勢を見たときに、やはり今後、世界は、混乱と争いの時代を迎えることに
なるでしょう。
もちろん日本も無関係でいられるハズがありません。
ただ、それは、「既成観念の洗い出し」「社会の膿み出し」の作用なので
あって、その時に大切なのは、「どのような未来を創りたいのか」という、
私たち一人一人が持つ「ビジョン」なのです。「想い」なのです。
世界人類が、皆仲良く、大調和の中で、大和の中で暮らす未来を描くのか。
それとも、これまでの権力者を引きずりおろし、今まで虐げられていた側が
単に後釜に座るだけの、終わりなき権力の奪い合いに終始するのか。。。
暗雲に覆われた混乱の時代が過ぎ、やがて再び世界が静けさを取り戻した時、
暗闇が晴れて私たちが目にする世界は、その混乱の時代に何を思って、何を
描いて生きていたかによって、まったく違ってくるということなのです。
波動共鳴という原理の中で、人々の想いの中にある「大調和」の周波数と、
「不調和」の周波数の違いが、そのままそれを体現する世界に人々を振り
分けていくと、いわれているのです。
思いの違いによって、その周波数の違いによって、同時に二つの世界が
存在する、ということになるのです。
ひとつは、大調和の世界。
もうひとつは、核戦争で静かになってしまった世界・・・
さて、あなたは、どちらの世界に本気で行きたいと思いますか?
そのあなたの「応え」が、「清き一票」が、未来を決めています。
「大きな樹」は、混乱の時代にこそ自分を見失わないために、
光の方向を常に指し示す「しあわせのコンパス」を手にするために、
できるだけ大きな視点で、これからもメッセージをお送りして参ります。
また、ご意見、ご感想などありましたら
ぜひ、お聞かせくださいませ。
いただいたメッセージを「番外編 第2弾」というカタチで、
またご紹介できたら楽しいな、と思いますので。
それでは、「番外編」はこれでおしまいです。
また、来週お目にかかりますね。
最後までおつきあいくださり、本当にありがとうございました。
あなたが、しわせでありますように。
生きとし生けるものが、しあわせでありますように。
愛と感謝を込めて
KEN