おはよーございまーす、KENです。
ものすご~~く暑かったかと思えば
寒いくらいに、急に涼しくなったりして・・・
体調崩されてはいませんか?
どうぞご自愛くださいね♪
最近は春先からGWぐらいにかけて、毎年のように学級閉鎖や
学年閉鎖になりますが、
ウチの子ども達、まず風邪ひきませんねぇ・・・
ありがたいことです。
それもそのハズ?
息子曰く、
「どんど焼きでお団子食べたから、絶対に風邪ひかないんだよ。
お父さんにもあげたでしょ?だからおとーさんもひかないから。」
「あ~そうか、なるほど!」
って思わずうなずいてしまったほど、確信に満ちて言うその言葉には
なんていうか、屈託がなく、本当に力があるんですよ。
そういえば、去年もずっとそう言ってたし。
で、風邪ひかなかったし。
だから今年は、インフルエンザの予防接種受けるのやめたし。
ん~「素直さ」というのは、本当に最大の武器かもしれないな。
あ、、、○○は風邪ひかない、ってやつか!
なぁんだ(爆)

さてさてさて。
もうね、「こころへの旅」もここまで来たら、
とことんアウトプットさせていただこうと思います。
神様と心と体と魂の深~~~い関係♪
私たちが「人」として生を受けた、ということ。
人間として生まれた、ということ。
それは、私たちの魂が「天国」にいたという証。
私たち一人一人が、「光りの天使」として、
この地上に降り立った、ということを意味しています。
なぜならば、地獄に堕ちた魂、地獄霊というものは、
人間に転生することは許されていないからです。
この世に生まれた数十年の人生が「全て」ではないのです。
むしろ、永遠の命を生きる魂にとっては、地上での生涯は
ほんのわずかな、一瞬でしかないのかもしれない。
そして、肉体がもうこれ以上動いて働くことができなくなった時、
それを「死」と呼んでいるけれども、魂は肉体という船を降りて、
「実在界」と呼ばれる天上界へ還っていくのです。
その帰天の時に、私達はよく分かっていることだけれども、
地位や名誉やお金や宝石、その他諸々、物質的なものは
何一つ持って帰ることはできないのです。
でも、たったひとつ、持って帰るものがあります。
それは、私たちの「想い」です。
私たちにとって、この地球という魂の修行場での数十年の生涯に
おいて、一番大切なものは、神の子として、愛の子として、
「何を思い、何を成したか」ということだけなのです。
だからこそ、その修行の成果としての「想い」と、それに伴う
「おこない」が、魂に永遠に記録されて、魂の成長の記録として
残され、天上界に帰った時にその記録を元に指導を受けるのです。
神理に即して、愛に生き愛を体現したのであれば、拍手をもって
迎えられ讃えられるけれども、自己保存に終始し、利己的な思いの
中で不調和を生み、他人を傷つけたのであれば反省を促されます。
そして、その反省を元に、他人を傷つけたことの報いをカルマとして
背負って、そのカルマの清算を自らの課題として計画し、その課題の
克服のために再び地上に肉体を持ち、修行の場に転生していくのです。
例えばもし、生前、宗教指導者として生きた者が、その信者に対して、
爆弾を抱えて対立する者のところへ行って自爆し、神の名の下に自ら
相手の命を奪うよう指導したとしたら、もう地獄へ直行でしょう。
多くの魂に影響を与えるその立場の責任の重さゆえに、その
犯した罪はあまりに重く、天上界では数百倍、数千倍となって
自らに返ってくるのです。
数百年、数千年という長きに渡って地獄の責め苦を負うことに
なるのです。
魂は永遠の命を生きるからこそ、魂は死ねないからこそ、地上で
神の愛に背いた行為というのは、因果律という宇宙の絶対法則の
中で、非常に大きな結果として本人に跳ね返ってくるのです。
地獄に落とされるというよりは、神の光の強く降りそそぐ天上界に
あっては、そのような地獄的な波動を持つものはいたたまれない、
共鳴することができないために、自ら弾かれてゆくということ。
そして、同じような波動を持つ者たち、つまり地獄霊の溜まり場へ
身を寄せるしか、自ら赴くしか、居場所がないということなのです。
でも、そのような地獄霊であっても、もし反省をし、今一度
天上界の愛の波動、神の光の方を向くことができれば、
救済されないということは決してないということ。
むしろ、天上界は、神は、「戻っておいでよ」と、ひたすらに
その時を待っているのだということなのです。
なぜであるならば、地獄霊に成り下がった魂であったとしても、
かつては光の天使として地上に降りた、つまり人間として転生した
ことのある仲間であり、やはり神の子であるからです。
悪魔とよばれる者達、たとえ魔王として地獄界に君臨する者達で
あったとしても、彼らに対する神の思いは同じなのです。
神はわが子を決して見捨てないのです。
ただ、地獄の苦しみの中で、神の光の届かない暗黒の世界の中で
自らの思いを省みる余裕などないために、そこから抜け出すのは
相当に難しいということもまた事実のようです。
だからこそ、肉体を持って地上で生きるという数十年が、
とてもとても貴重なものであるということ。
肉体があればこそ、歯止めが利くということもあるのです。
不調和な思い、業想念を抱いたとしても、病や不運として、
まず体に変調をきたして、警告してもらえるからです。
実在界とよばれる天上界で、魂として、霊体として生きる時、
何を考えているのかは、全てガラス張りでわかってしまいます。
そして、思ったことは即、実現してしまいます。
愛の思いは、相手を喜ばせ、美しい世界を創り出しますが、
愛なき思いもまた、即実現し、相手を一瞬にして傷つけます。
そしてその報いは、大きく自分に跳ね返ってくるのです。
間髪入れずに実現する世界にあっては、取り返しがつかないのです。
「あ、しまった」と言うや遅く、既に結果が出てしまうのです。
怖い世界です。
だから、天上界には善なる美しい魂しかいないのです。
なぜなら、そうでなければ居られないからです。
地上で肉体を持っていれば、「思い直す」ことができるのです。
思いが実現するまでの間に、猶予があるのです。
タイムラグがあるのです。
言い直せばいいのです。
思い直せばいいのです。
反省によって、常に自らの思い、言動をチェックできるのならば、
たとえネガティブな思いを持ったとしても、それを手放して、また
新たなる、「愛ある思い」で上書きすることができるのです。
カルマの刈り取り、清算のために計画された病や不運であっても、
あるいは、今世の自己のネガティブな思い、執着や強欲が現象化した
病や不運であっても、それは赦しのプロセスにあるという証です。
ありがたいものなのです。
感謝すべきものなのです。
このことがわかれば、いたずらに病を気にしたり、恐れたり、
不安になったり、体をいじくりまわしたりする必要はないのです。
病や不運に囚われて、そのことで思い煩ってはいけないのです。
浄化のプロセスにあるのだから、病や不運を受け入れ、苦しみと
つきあいながら、感謝を持ってそれを乗り越えていけばいいのです。
それを乗り越えたところに、魂の成長と喜びが待っているのです。
大いなる赦しを与えられたことに、成長の機会を与えられたことに
感謝できたのなら、病や不運に苦しむ他の人々のことも、真に理解
することができ、励ましやよきアドバイスを与えられるハズですね。
こうして私達は、苦しみを通して学びながら、隣人に対してよき
理解者となり、愛を体現してゆく神の子としての資質を磨いてゆく
ことができるのです。
素直であること。
謙虚であること。
いつでも感謝の心を忘れないこと。
子ども達の勉強もそう。
神理を学ぶ私たちもそう。
この3つは「学ぶ者」にとって、成長するために
絶対に欠かせないものなのですね。
それでは、
素直な天使達に囲まれて、よい一日を!
生きとし生けるものが、しあわせでありますように。
P.S.
今日はいよいよ28日本番ですね♪
夜10時にお会いしましょう~