おはようございます、KENです。


台風のもたらす大量の雨・・・

今回は、進路といい雨量といい、日本の国土を洗浄するために
来てくれたような感じですね。


恵みの雨・・・ と言いたいところですが、
本来はそのはずなんですが、


最近はすぐ「土砂災害の恐れがあります」とかって、
大雨注意報とか警報とセットになってしまうのが、
なんだかなぁ・・・ って感じです。


静岡県はお茶の産地ですが、昨年は春に新芽が出てから一日だけ
霜が降りた日があって、その影響が新茶の収量に影響しました。
今年は、放射能がらみでまた心配の種が・・・



私達の生活は、普段は忘れがちですが、やはり自然と共にあって、
地球の環境の絶妙なバランスの中で生きることができるのです。


宮崎の口蹄疫も、牛や豚を「肉」としか見ない私達の「意識」に対する、
「命」としての動物達からの抗議であり警告のように思えてなりません。


こころのバランス、体のバランス、食のバランス、生態系のバランス、
地球環境のバランス、太陽系銀河系のバランス、宇宙のバランス・・・


それらすべてが密接に関係しているのであるならば、私たちにできる
ことはまず、


自己の(心身の)バランスを整えることから、ですよね♪







さてさてさて。


じゃ、そもそも「魂」ってなんなんだ?


って話を、いろんな角度からながめながら、概略のイメージを
つかんでいこうと、ゆるゆるツアーを試みております。




ひとつのアプローチとしては、「魂」の働きが、人間の行動として
現れる、その「現れ方」から、魂の姿というか、魂の性質というか、
その辺りにせまっていくことができると思うんです。




実は「魂」は、古く「古事記」や「日本書紀」などの「歴史書」にも
登場し、いわゆる「神代」=「神話の時代」における神様の名前とし
て記述されているものでもあるのです。



詳しいことは忘れましたが、記紀の中の神々の武勇伝の記述に、
『これは□□命の「荒魂(あらみたま)」であった。』のように
著されています。



あるいは、いさかいが治まるといった善政を行った物語で、これは
○○命の「和魂(にぎみたま)」であった、みたいな感じで顕れて
くるわけです。



このニュアンスは、かつてこの地上に肉体を持って実在した英雄の
その分霊としての「荒魂」が、再び□□命の魂となってこの世に転生
しているということでもありますが、今は触れないでおきましょう。



そういえば、伊勢神宮(内宮)へお参りしたときも、天照大神の
「荒魂」をお祭りししている「荒祭宮」というお社が敷地内にあり
ましたっけ。




つまり、「魂」の働き方によって、それが人間の様々な行動として現
れてくるので、その「現れ方」に「○○魂」と名前がつけられている、
ということなんです。



記紀の記述に見られるように、日本古来の考え方からは、
「荒魂」と「和魂」という二つの代表的な魂の現れ方が
うかがえます。



なんとなくわかる感じ、しますよね?


「荒々しい」魂と、「和やかな」魂。






といっても、神話ですから、それは「神様のお姿」なのですが、
結局、私達はその神話の時代から脈々と続く子孫である以上、
それは人間というものの姿、私達が等しく持つ性質に違いないのです。



私達もまた、時として怒りや暴力などの気性の激しさを表し、
また一方で、思いやりや優しさなどの「愛」も、表現しています。
自分自身の中に内在しながら、まるで別人格のような二つの側面。。。




ただ、今日の科学万能物質文明に生きる私達は、「こころ」の使い方
を、かつての神話の時代や、自然と共に生き、精神性を重んじていた
時代に比べて、明らかに後退させ、退化させていると言えるでしょう。



現代でも、例えばアボリジニの方々は、遠く離れた同胞とテレパシ
ーで交信ができるといいますし、鳥や植物の声を聞くことができる
方もいれば、霊的な存在と話のできる方もいるわけです。



また、釈尊は数々の修業や、最終的には深い思惟を通して、いわゆる
「神通力」を獲得されました。



また、現代では中村天風師のように、ヨガをベースにしながら、誰に
でも分かりやすい方法で「本当のこころの力」を得る方法を独自に体
系化され、第一義的人生とは何かを説かれた方もいらっしゃいます。





ですから、神様の子孫ではあるのですが、そのような聖者・覚者を
除いて、私達は、その精神性において神様と「同じ」ということは
残念ながら今の段階では言えませんよね。



だからこそ、私達は迷い、悩み、苦しむわけです。
心の使いかたを「間違えている」、あるいは「知らない」のです。




でも、釈尊やイエスや前述の天風師などの覚者・聖者の教えを守って
日々実践すれば、私達もまた、失った、いや忘れてしまった精神性を
取り戻すことは十分可能なのです。



彼ら覚者・聖者は、そのためにお生まれになった、
ともいえると思うんです。


私たちのために、ね。



それは、人類の精神性の向上のため。
そして、その真に意味するところは、つまり、
「魂」の救済のために。







こころと魂は別物であり、私達は心の使い方がヘタクソなために、
私達の本来の姿である「魂」の声を聞くことができてないでいる
のです。



その状態は、神代、いやそれ以前、宇宙の始まりから続く「魂の
ふるさと」「魂の父・母」つまり「創造主」といわれる「神」との
つながりを、自ら遮断していることになるのです。



私たちは、本来、目的を持ってこの地球に人間として生を受けた者。


そしてこころは、自己の魂が、自分らしいスタイルで、自己の肉体を
使って、この地球をより調和の取れた、愛に満ちたすばらしい星にし
ていくという仕事をサポートするために使う「道具」なのです。



こころは、魂の声を聞くために、穏やかな凪いだ海のように、キレイに
鑑のように曇りなく、波風立たない状態に常に保つ必要があるのです。
この状態を、仏教方面では「無私」とか「無我」と言っています。



よく知られている般若心経でいえば、「心無罫礙」(しんむけいげ)。
(※罫の字はトの部分がないのが正しい字です。変換できないので。)



つまり、こころに「わだかまり」や「とらわれ」が何もなく、まぁ
言ってみれば「(悩みや苦しみを)何も考えない」状態。



あなたはできます?
心配や不安や悩みや恐れなどを「何も考えない」ことが。



難しいでしょ~~(笑)
これは、なっかなかムズカシイ。



でも、訓練すればできるようになるのです。
その方法というのが、「瞑想」なのです。




そう、お隠れになっている自己の魂にご登場いただくためには
瞑想によってこころを「無罫礙」にすることが可能なのです。



言い換えれば、私達の「記憶」や、現実世界から受ける「刺激」に
応じて映し出されるこころのスクリーンに「何も映っていない状態」
をつくる、ということなのです。



ただただ、明るい光がスクリーンに投影されているだけの状態。
この「光」こそ、魂の光、慈悲の光、神様の愛の光、それらが波動
共鳴して合い通じ合うための「磁場」を表しているのです。



あるいは、嫌な映像が映っていたとしても、そこに意識を向けない
状態、要するに何かにとらわれたり、心配したり、不安になったり
気にしたりする、という「意識」を働かせない状態、ともいえます。



この瞑想やこころをクリーンにする方法については、
またの機会にゆっくりたっぷり触れることにします。
これは、とても大切なテーマですからネ。




今は少し先を急いで、魂とこころの全体像をつかむことを
優先していきたいと思います。



というわけで、次回は、こころをキレイにできたと仮定して、
その時に現れる「魂の働き」を見ていくことにしましょう。





生きとし生けるものが、しあわせでありますように。