「あらぶる」子ども達の姿。


 
それは、人間が生まれながらにして持つ
「良心」のままに生きたいと願う魂が、
違う方向へ導かれていることへの反発。



親の側、大人の側からその姿を見るときには、
“ 子育て ”が、「間違った方向」へ向かっている、と
いうことへの警鐘であり、


子どもが不安や恐れをいだいていることのサイン、と
見て取るべきもの。



なのです。




伝わりますでしょうか。





「良心のままに生きる」とはどういうことか、っていうと、
こんな「み」(実)のなってる「大きな樹」をイメージしてみて
ください。


 なごみ

 したしみ

 はぐくみ

 いつくしみ


つまり、思いやりあふれる、こころ豊かな、愛の人になる、
ということです。




こういう人は、いっつも誰かを喜ばせていて、
その人が笑顔になることに自分自身も最大の喜びを
感じています。



笑顔を絶やさず、人の心を明るくし、「お福分け」をしているので、
慕われ、感謝され、頼りにされますから、決して「さみしい」という
ことはありませんね。



「良心」のままに生きるということは、「さみしさ」とは無縁の世界に
住み、それがゆえに、不安や恐れは取り付く島がなくなるのです。





ヒトは、「良心」という、
幸せになるための方向を常に指し示すコンパスと、

平和で穏やかで心地よい気分や、
善いことばかりが起こる現実を映し出す受信機を、

「こころ」という場所に生まれながらに持っているのです。
(より正確に言うならば「魂」なのでしょうけど)



「良心」にしたがって生きるならば、
誰も迷わないし苦しまないし、恐れることなど何もない、
というように私達は創られているのです。







そうなんです。


子ども達は教えてくれているのです。
私達に。



子ども達は、私達のありかた、生き方こそが、
「間違った方向」へ向いていることを教えてくれる
「真澄の鑑」なのです。



子育ての期間を通して、子ども達は、
常に私達の姿をそのまま映し出す鑑となってくれて、
親自身を「正しい方向」へと導くガイドをしてくれているのです。





親であり、教師であり、社会人である私達大人こそが、
子ども達という無垢で無邪気な天使に、教えられ育まれているのです。



なんとなく伝わりますでしょうか?






私たち自身が、自分自身のこころの中に、
なごみ、したしみ、はぐくみ、いつくしみ の実を
大きく育てる努力をしないで、



他人まかせ、金まかせ、親まかせ、出まかせ という
「足かせ」をはめたまま子育てをしようとすると、
子ども達が「あらぶる警報」を発令するのです。



そこには、「愛」が見えないのです。
いえ、親は、いつでも「子どものため」と言うんですよ?



でもそれは、口から「出まかせ」で、

「子どもを塾や習い事にやってしまえば自分の自由な時間ができて嬉しい」

のが本音だったりするのです。



「自分は働いていて、疲れて帰ってきたらまた子どもと付き合わなければ
ならないのは心身ともにキツイ。できるだけ長く預かってもらおう。」


という本音から無意識に出る言葉や態度が、
子どもの心に「さみしさ」を生むのです。





小さな子ども達は「考えなし」で、行動します。
素直だからこそ、「わかる」のです。



親や大人の「言うことをきく」ことが素直だと、私達は思いがちです。



でも、そうではなくて、宇宙の法則とつながってる魂の声を、
素のまま直接「感じて」行動することができる、ということが、
本当の「素直さ」だと思うのです。



子どもが、本当に「自分のためになる」と感じたなら、
警報を発令するどころか、

「おかあさんありがとう!」「お父さん大好き♪」

という言葉が自動的に還って来るのです。



いやたぶん、そんな時子ども達は・・・
嬉しくて楽しくて、もう踊りだしているでしょう(笑)



間違いなく、ピョンピョン飛び跳ねているはずです。




本当ですよ?



おたくの子ども達、踊ってます?(笑)