名古屋流 | 雲の呟き

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流れる雲のように、浮かんでは消えていくものの名残を文字にしています。
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名古屋の結婚は派手だといわれて久しいです。

が昨今時代は移って次女たちの秋の結婚式は媒酌人もなければ結納も無い。

家と家の結びつきの習わしなど過去のことだとは。親類、血縁といえども賀状の挨拶程度で疎遠なことばかり。

その賀状ですら従兄弟から先など死のうが子供ができようが全く知らなかったの事後連絡すら無く、あえて聞く方も聞かされるほうも知らぬが仏の迷惑先晩ぐらいにしか思われない時代。

ですから結婚までのプロセスも人前式で披露宴をする事すら百歩譲って良くやるほうみたいです。

「本人たちさえ良ければいい」というのが全ての免罪符になってしまっているのが悪いとは言いません。

じゃー一体全体何のために披露宴すらやるんでしょう。友達たちを集めてパーティーがしたいだけなら最初から親なんか居なくてもいいんじゃない。

形式だけというならさっさと紙切れ一枚役所に届けて一緒に暮らし始めればいい。

あまりに実利的に簡素になりすぎたために離婚率は高く出生率は落ちてきた可能性は無いでしょうか?

昔のような「縛り」「拘束力」としての家制度に戻ろうとは言いません。家制度が全体主義の出発点だったと思います。家のため、組織のためが個人を踏み潰していきました。

ただ手塩に育てた娘の将来をよその男に託すのです。犬や猫をあげるんじゃありません。いや犬だってよそに預けることすら憚れるほど可愛いのは変わらないんだから相当心配なのです。

意味がないと思われてきた儀式や伝統が抑止力になっていたのでは無いでしょうか?

ひいては生まれてくる子どもたちも夫婦二人だけの事でなく家族で地域で育てていく「子宝」という意識を育んでいたのかもしれないと最近思えるのです。

名古屋流というのはそんな保守的伝統のあらわれでその源流はただの「親心」だったみたいに思えるのです。

昔の植木均がドラマでそんな父親像を演じていたのを思い出しました。

まーくそ爺の戯れ言とお笑いください。