兌換というのは人が変わってもできるだけ等質性を保ってくれていないと不公平が生じます。
同じ商品でもある人にとって億出しても惜しくないと思うものであっても、別の人にとってはくれてもいらん「ゴミ」である事はよくあります。
そこを調整してくれるのが通貨なわけです。
一方そうした人によって差のある「価値」というのはどこから生じるのか?
「価値」というのは物やサービスなど個人の欲求を満たす効用そのものを指します。
ですから個人によって差のあるものではあるけど普遍性のあるものです。
例えば具体的にここに自分で作ったテーブルライトがひとつあるとして、これを誰か他人に譲ろうと思うと価格が変動します。
その人にとっては苦労して思い出のいっぱい詰まったランプです。できるだけ高額で引きとって欲しいと思うでしょうね。
当初高額であった売却価格もよそ様にとってはただのランプです。なかなか売れずに仕方なく価格を下げていく事だってあるでしょう。
でもその人にとってランプ自身の潜在的に持っている「価値」が損なわれたわけではありません。
価値というのはそうした普遍性を持っています。
我々はバブルがはじけた時にそうした物の価値の実態についてよく学習したはずでした。
いくら日銀が紙幣を増刷しても「価値」が生まれているのではありません。
そんな簡単な事誰だって分かっていたはずなのに。
為替が変わっていくら手元の土地や機械の評価額が大きくなっても、そのものの内在する「価値」の大きさの実体自身はそんな変わるものではありません。
それを「通貨」の総量だけでGDPだ成長だというのも滑稽千万というものです。
人間一人が二人分働く、価値を生み出すのは大変な事です。
引退して一人になると自分がどれだけ無能か思い知ることになります。
会社があって多数の人が力や知恵を合わせてはじめて何倍もの価値を生み出す事ができます。
人口が減るというのはそういう意味でも価値の総量を増やすのは難しくなります。
なのに「通貨」の総量だけをとって「成長」とは言い難いはずでした。
確かに私の育った頃に比べ物資は豊富になりました。便利で快適になったのは間違いない。
それが「豊かさ」の評価なのでしょうか?
大事なものをずいぶん失った気がします。