気づけば、いつも「なんで?」って問いかけていた。
あの人の態度、あの場の空気、自分の反応──
どうして、こんなふうになってしまうのかって。
別に、大事件があったわけじゃない。
誰かにひどいことをされたわけでもない。
でも、なんだか生きづらい。
息苦しい。
疲れる。
そう感じることって、ありませんか?
わたし自身、何度もありました。
人の顔色を気にしてしまう自分、
責められてないのに、責められている気がしてしまうとき。
誰かの何気ない一言が、心の奥まで刺さって抜けなかったり、
いつの間にか「自分の感情」よりも「他人の期待」を優先していたり。
そして、そんな自分に
また「なんで?」って問いかけてしまう。
苦しくて、悲しくて、答えが欲しくなる。
でもね、あるときふと、
その“問い方”そのものに、何かが引っかかったんです。
「どうしてこうなったのか?」
「なぜ私だけがつらいのか?」
たしかに、理由を探したくなるのは当然です。
けれど、理由を追いかければ追いかけるほど、
いつの間にか“出口のない迷路”に入り込んでいる感覚があった。
そんなとき、あるひとつの問いが浮かびました。
「私は、何を“見て”、苦しくなっていたんだろう?」
──世界は、変わっていない。
でも、“私の見え方”が、何かを強く決めていたのかもしれない。
たとえば、
ある人の冷たい態度が「私を嫌ってる」ように見えるとき。
そこには「私は愛されにくい存在だ」という、
自分でも気づいていなかった“前提”が隠れていたりします。
でも同じ出来事を、
「きっとあの人も余裕がなかったのかも」と受け取る人もいる。
──現実は同じ。
だけど、その“意味づけ”が違うだけで、
わたしたちが体験する「現実」はまるで別のものになる。
つまり、「現実」って、出来事そのものじゃないのかもしれないって思ったんです。
じゃあ、「現実」ってなんだろう?
何が、私たちに“そう見える世界”をつくらせているんだろう?
そんな問いから、
わたしは“情報の構造”や“見え方のフレーム”というものに出会いました。
それは、ただの思い込みでも、性格でもなくて、
これまで生きてきた中で、自然と身につけてきた「世界の見方」。
まるで、無意識にかけていたゴーグルのように。
そのゴーグルを通して、ずっと世界を見ていた。
そして、それが「現実」だと思い込んでいた。
もちろん、そのゴーグルをかけていたのには理由があった。
過去に自分を守ってくれたからかもしれないし、
育った環境や、信じてきた価値観の中で自然と選ばれてきたものかもしれない。
でも、今の自分にはもう合わなくなっていることもある。
そのときに、問いが変わる。
「どうしてこうなったのか?」ではなく、
「私は、どんなレンズで世界を見ていたんだろう?」
そして、もう一歩先へ──
「そのレンズを、少し変えてみることはできるだろうか?」
「変えなきゃ」と焦らなくていい。
「正しく見なきゃ」と頑張らなくてもいい。
ただ、
“見え方”を少しずつ問い直していくことで、
世界の輪郭が、ほんのわずかにやわらかくなっていくことがある。
それは、誰かに評価される変化ではないし、
すぐに結果が出るものでもないかもしれない。
でも、確かに感じる。
「なんだか、少しだけ呼吸がしやすくなった気がする」
そんなふうに。
そんな視点から、「現実の見え方」について綴ったNOTE記事があります。
もし今、
見えない疲れを感じていたり、
自分を責めてしまったり、
この世界のなかでどう生きていいのかわからなくなっていたら。
ほんの少し、
見え方を問い直すきっかけになるかもしれません。
よかったら、読んでみてくださいね。
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