余韻のなかでーー




さる1月20日、弘前市の鳴海要記念陶房館ギャラリーで、舞踏家・雪 雄子さんのライブ「宮沢賢治を巡る風の旅」の場に私はいた。






公演後、観客を前に雪さんがお話してくださった時、「あぁ、それでいい。」と、自分への許しのようなものを受け取っていた。




雪さんが舞踏を行った、のではなくて、あの場で起きていたことすべてが舞踏だったのだと、今はそう思う。




翌21日、雪さんのワークショップにも参加した。




私たちは「風」になった。

風を演じたのではなく、風になった。

風そのものに。そこに自分はいなかった。




風になる必要もなく、

すでに風であった。







「風とは呼吸」

という雪さんの言葉が自分の中で呼応した。

「あ、勝手に吹いてたのか」と。




風が振動で波動で、音で、粒子で。




時に波のように押し寄せてきて流されて、でも呼吸を整えれば、小さな風を自ら起こせるんだなぁと(個人的な感想)。




風に入る前に、呼吸を教わったのもよかった。

思考が静かになった。

頭で考えていたら分離を起こし、

ぎこちなくなっていただろう。




心でなのか魂でなのか、

心象風景に入り込むことで、それそのものになる、んだろうなと感じた。




ワークショップでは祈りもした。

それぞれの祈りのポーズをとった。

ポーズという言葉はズレているようにも思えるのだが・・・



そう、雪さんから「彫刻」という言葉を耳にした。

とにかくそれぞれが祈った。




ふと思い浮かんだのは能登だった。







とにかく衝撃的な出来事だった。

これからもこの日のことを引用することになるだろう。




雪さん、ご一緒させていただいた皆様、有り難うございました。





写真は雪さんの肉筆。賢治の文章が書かれている(20日撮影)。





(2024年1月21日、冥王星が移動し、本格的に風の時代に入ったという日に。そうとも知らず風になった人たちの話。破壊と再生。舞踏の創始者・土方巽さんの命日に)





石田舞子