少子化問題を掘り下げて考えるために | 政治とメタルと網膜剥離

少子化問題を掘り下げて考えるために

今日は少子化問題を考える上で、多くの方に示唆を与えてくれると思われる良著をご紹介したい。


 書名は『「家族計画」への道―近代日本の生殖をめぐる政治)』(2008年10月岩波書店刊)という。著者はジェンダー論、女性論が専門で阪大大学院教授を経て現在は同志社大の教授の荻野美穂氏である。

 この本の「はじめに」で、著者はこう述べている。

現在のわたしたちにとって空気のように当たり前で自明なものとなってしまった生殖をめぐる考え方-子どもは一家族あたり二人が「ふつう」だとか、生殖を計画的に管理するのは責任ある正しい行為であり、その手段としては中絶より避妊の方が望ましいといった-が、いつ、どのようなプロセスを通じて生成されてきたのか・・・

 著者はこのような考え方が自然と国民の間で醸成されてきたものではなく、フーコーの言説も引用して、幾度かの政治介入とそれに対する国民の反発や順応を経て作られたものであると主張する。

 この本の趣旨の理解のため、明治5年から昨年までの出生数と人口千人あたりの出生率(合計特殊出生率とは異なる)のグラフを作成したのでご覧いただきたい。



政治とメタルと網膜剥離

 

 戦前の出生数はほぼ一貫して伸びていたが、1920年に大きな伸びを示した後はやや伸びが鈍っている。出生率については1920年を境に明らかに下落傾向となる。維新後50年を経て、都市生活者も増加し、豊かな生活のために産児制限をする、という思考が一部ではあるが発生してきていたのである。

 しかし、1930年代後半になると、日中戦争の泥沼化や大東亜共栄圏樹立を目指す軍部は、総力戦のための人的資源確保の観点から出生数の増大を目指すようになった。「産めよ増やせよ」で知られる産児報国の時代である。

 そして矢継ぎ早に対策が出される。1937年には母子保護法と保健所法が施行、38年には国民という人的資源を効率的に統制運用するための組織として厚生省発足、39年には乳児一斉検診開始、現在まで続く人口問題研究所が発足と、今日につながる政策が続々と打ち出される。

 そして総仕上げとして、42年には妊産婦手帳制度は始まる。これも母子手帳と名を変え今日に至っている。我々が当たり前のように思っているこれら制度が、実は総力戦体制の遺産だったのである。これら施策の結果か、3839年にかけて激減した出生数は、太平洋戦争開戦に向けて回復していく。

 しかし、敗戦後一変する。「敗戦を迎えた日本は、間もなく深刻な人口問題に直面した。同年10月時点での本土人口は約7100万人であったが、ここに海外からの引揚者や復員兵ら約700万人が加わり、さらに彼らの結婚や家庭復帰により出生率が急上昇して、戦後ベビーブームが出来することになった。47年から49年にかけての3年間だけで806万人もの子どもが生まれた。」(本書142項)

 この状況下では当然食料問題が起き、日本を統治するGHQが人口問題に強い関心を持つことになった。本書によると占領直後の4510月からの5年間に人口動態調査を命じる指示を6回も出しているという(本書143項)。ただ、この関心は単に食料問題だけから来たものではなかった。著者は言う。

「人口問題への強い関心の背後には、そもそも日本の帝国主義的対外侵略をもたらした根本原因の一つが過剰人口の圧力であったとする、人口学者ウォレン・トムソンらの説が影を落としていた。」(本書143144項)

 そのため、GHQは早い段階から産児制限に関し「示唆」をし始める。「示唆」に止まっていたのは、避妊・中絶を否定する米国内のカトリック教徒の反発を恐れたためという。

 しかし、日本政府も国民も、この示唆には鈍感だった。ベビーブームは49年まで続き、政府も将来の国力低下を恐れ、産児制限には消極的であった。本書では4512月、当時厚相であった芦田均(後首相)の発言が以下のように紹介されている。

フランスやイギリスの例に見られるように、一度出生率が減少傾向になればこれを増加へと回復するには困難であるという理由で、現在人口が過剰であっても産児制限を導入するつもりはない、と答弁した」(本書157項)

 当時の政治家、官僚の見解として特筆すべき発言だと思う。しかしこのような姿勢がGHQの苛立ちを招く。489月には人口学者によるロックフェラー財団調査団が来日し、その報告書で人口増加対策を採らない日本政府と日本国民を強く批判した。そして49年に至り、ようやく日本政府は人口増加抑制に乗り出す。これを著者は、GHQの圧力によるものと見ている(本書158項)。

 この後、優生保護法成立により経済条件による中絶の合法化や家族計画の普及により、出生数、出生率とも激減する産児制限の時代となる。49年に270万人であった出生数が、僅か8年後の57年には157万人と4割以上減少したのである(上記グラフ参照)。このため日本は、人口構造上、団塊世代が突出した山を築くことになったが、60年代に大きな人口ボーナスを享受する要因にもなった。


 本書は表題の通り家族計画の変遷について書かれたものであるが、著者が豊富な史料を「家族計画」という視点から有機的につなげることにより、これまで見えてこなかった出産を巡る歴史が浮かび上がってくるようになっている良著である。ここでは優生保護法の成立までしか紹介しなかったが、本書ではその後の家族計画の様相や中絶合法化がもたらした影響などについても詳細述べている。



 私は人口問題を考える手がかりとしてこの本を読ませていただいた。日本の人口に団塊世代という大きな「山」が出来てしまったのは、それは人口増が膨張主義を招くという思想を持った米国の圧力によるものだった(もちろんそれだけが原因ではないが)という視点は、非常に新鮮である。一方で、最大の当事者である出産する女性の今日にも繋がる状況や思考、価値観の変化についても細やかかつ淡々と書かれており、注目に値する。


 団塊世代の山は後にエコー効果で団塊ジュニア世代の山を産み出す。しかし、産児制限により親となる世代の数が激減したため、団塊ジュニア以降は再び出生数が急減した。そして最近まで、一部では団塊ジュニアのエコー効果による第三次ベビーブームを期待していたが、その年齢が30代後半にさしかかっても出生数は回復せず、その到来は絶望視されている。


 我々は得てして出生数減少という目前の状況にのみ囚われがちだが、状況には必ず背景がある。我々の思っている常識も歴史の積み重ねの結果である。少子化問題を掘り下げて考えてみたい方にはぜひご一読をお薦めする。