On the Books Petrifying My Heel in 2016 | ナメル読書

ナメル読書

時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

 昨年の、まったく覚えのない文を読んでみると、昨年9月以降読書感想文を書くのを辞め、あるいは書くことができなくなり、かろうじて読むことを継続するのをーーそうする必要などないにもかかわらず表明しているのだがーー表明しているものの、それはあたかも自らの意思において保守化=再読を行うことを宣言しているように振る舞いつつも、容易に察せられるように、あの頃の私には未知の文を読むという労苦を背負い込む力が残っていなかったのである。ならば本を読むことなぞ辞めてしまえばいいのかもしれないのだが、病の中で仕事に復帰し、吐き気を催しながら通勤する毎日を重ねる中で、精神的に貧しい私はせいぜい慣れ親しんだ書き手の本を読むことにしか逃避先を求めることができなかったのであろう。私はあの頃に関わらず、ひとに対して逃避することができないのである。その傾向は、配偶者ができてからも、子をもうけてからも変わることがなかったし、今後も彼らを逃避先とすることはなかろうと思われる。私はきっと、生涯の終わりにおいても、人間的関わりの内のある種を為す方法を知らないままに、それに憧れを抱きつつ、瞼が閉じられる予期がある。 
 時々、俯瞰する自分なしに、他者に抱きすくめられる自分を想像する。

漫画部門:

 今年も私の神経をほぐしてくれたのは、仲間りょう「磯部磯兵衛物語」(集英社)だった。吉田戦車やうすた京介がセンスで勝負するギャグ漫画家であるのに対し、仲間りょうは異質であると思われる。そこには非日常に対する日常を扱った漫画の血液が確かに流れているのにもかかわらず、ただ日常であることや、あるいは日常における水平のズレを描くことでギャグを紡ぐことをよしとしようとはせず、垂直に逃れようとする。しかし、それを書き手の個性の発露にではなく、むしろその発露を恥じらいとし、できる限り抑えようとして、それでもかつ、垂直にズレてしまうことに垂直のおかしみと安心との本来あり得ない共存が可能になっているである。

 前回松井優征「暗殺教室」(集英社)の感想として、「その建設的完成度が保障された」と書いたのであるが、本年完結した今作はその期待に見事に答えてくれた。E組は22名であり、はじめは勿論主要人物しか記憶に残らないのであるが、作品中盤には全員のアイデンティティが確立され、皆に対して愛着を抱くことができる。特異な設定はともかくとして、書き手の目標は、ただひとつのクラスを描ききることにあったと思われ、それは成功したのである。落ちこぼれクラスでの落ちこぼれは勿論、赤羽や中村など、抜群の秀才が序盤でクラスに馴染んでいるように見えながら、実は最後の最後まで本当にはーー天才の自覚なき天才である渚と異なり、マイノリティである自覚的な秀才であるからこそーー馴染んでいなかったのであろうと予感させ、それが渚と赤羽との直接対決によって明らかとなり、また、その対決によって自己の内のわだかまりが解消されることが、私には非常に高度なテクニックであると思われた。

 福本伸行協力「中間管理録 トネガワ」(講談社)は、スピンオフとして秀逸な作品である。「カイジ」シリーズの非日常、というか異常世界に対して、人間が人間である限り当然まとわりつく日常を「カイジ」の文法において描くことで異常世界における人間離れした「人物」を単なる人間に落としている。今年最も笑わせてもらったマンガであるが、そろそろ無理がきているのも確かであって、例えば第4巻の兵藤会長の影武者には、ギャグとしての非日常が独自に現れてしまい、それを「カイジ」の文法で描くとやかましくなってしまう。

 大人の事情でのりつけ雅春「しあわせアフロ田中」(小学館)により「アフロ田中」シリーズが復活した。嬉しい限りである。

 さてマンガ部門の大賞は以下である。

 山本崇一郎「からかい上手の高木さん」(小学館)

 これまでに述べてきたマンガにおける日常というのは、決して現実世界の日常を写したものではなく、私たちが考える日常、あるいは私たちの望みを汲んだ日常であり、あくまで私たちが日常と見なす日常に過ぎない。と、するのであれば、マンガにおいては限りなく真正としての日常を描こうとする日常マンガと(これは通常日常マンガとは呼ばれない)、さきの意味での日常系マンガ、そして非日常マンガがあることになる。無論、これは上の3つがあるというよりは、3つの極が並ぶ内に、各作品の配置がグラデーションを描いているというべきであろう。
 さて、「高木さん」は日常系マンガの典型といってよいだろう。まだ幼さを残した中学生男子(西片)が、幼さを過分に残しつつも彼よりは自我に目覚めている中学生女子(高木さん)にからかわれるという話である。高木さんは西片に恋心を抱いているし、そうした自分を遠くから眺めるほどに成熟しているので(ただし感情までが制御できるわけではない)からかいによってそのエネルギーを消費させるのであるが、西片は幼いのでそうした高木さんの自覚に気づくことはなく、かろうじて恋心が伝染されるだけである。その(現実にはあり得ぬ)ギャップが、いつの昔か知らぬ間に愛されていたという不確実ながら望ましい記憶を刺激してくれる。ただし、高木さんがこれほど聡明で自我の発達が順調であるならば、西片との恋心を介したからかいをするのはせいぜい1年程なのだろうな、と、確信できることに一抹の哀しみがある。

評論部門:

 今年のはじめはカント「判断力批判」(篠田英雄訳、岩波文庫)を再読した。私はこの読書感想文において、すぐれた作品の条件として、書き手はそれを記している間はそれが何であるのか知ることができないが、記している間も、記し終えた後も、それが必然であることを確信しているもの、といったことを繰り返し、ほぼそれだけを書いてきたのであるが、それは結局のところカントのいう「主観的合目的性」ということになる、というよりはおそらく以前に読んだときからこの概念が頭に巣くっていたのである。他に実は読んでいなかった「プロレゴメナ」(篠田英雄訳、岩波文庫)、「視霊者の夢」(金森誠也訳、講談社学術文庫)も読んだ。

 カントに関する書籍としては下記を読んだ。

 ①石川文康「カント入門」(ちくま新書)
 ②中島義道「カントの読み方」(ちくま新書)
 ③中島義道「悪への自由」(勁草書房)
 ④中山元「自由の哲学者カント」(光文社)

 再読した①はやはり入門書としては最良のものの内のひとつであるが、この本をさきに読んで、カントの書を読もうとすると、①の解説を確認する読み方になってしまうので、それだけは止めた方がよい。
 中島義道はカントを、カントが書いたままに忠実に理解しようとする。つまりラディカルに読むということであり、その本も分かりやすいとはいえないが、丁寧に論を追っていけば必ず得るもは大きい。特に③において、カントの道徳論が、世間一般でいう「道徳」と異なり、いかに熾烈なものであるかが知らしめられる。実は中島義道の本としては「カントの時間論」(講談社文庫)にも手を出したのだが、さすがに歯が立たなかった。
 ④はあまりに網羅的に過ぎて、解説書としての歯ごたえも感じられなかった。中山元は光文社新訳文庫で多くのカントの書を訳しているので、その注釈や解説を読んだ方が有益であろう。

 柄谷行人「憲法の無意識」(岩波新書)に参照として出てきたことから手に取った豊下楢彦④「昭和天皇・マッカーサー会談」(岩波現代文庫)、⑤「安保条約の成立」(岩波新書)を読み、終戦から10年ほどの戦後期について興味を抱くようになった。
 吉田茂については高坂正尭「宰相吉田茂」(中公クラシック)での再評価、つまりワンマン宰相かつ対米従属の主導者との感情的反感から、「戦争に負けて、外交に勝つ」ことによって米国をいなし、経済復興の礎を築いたという見方が現在においても影響を残しているが、④、⑤はそれを否定するものである。すなわち、米軍の沖縄駐留の承諾というカードを早々と手放した以上、吉田茂は外交でも負けたというものである。さらに④で衝撃的なのは、吉田茂、マッカーサー(および後任のリッジウェイ)の他に「政治的」プレーヤーは他にいて、それは昭和天皇に他ならぬというのである。非常にスリリングな本なので一読をお勧めする。

 政治哲学においては平等をいかに定義し、何をもって格差をとらえ、誰がどのような権限で、いかなる方法をもってして、それを達成するのか、あるいは平等を目的とすることはそもそも正しいことなのかが議論されるのであるが、死を平等に取り扱うということは問題として設定しうるのであろうか。結果主義とするなら、死は単に死であり、どのような死に方をしようと死者は等しく扱われるべきである。手続き主義ならぬ過程を重んじるならば、死への道程によって死者の取り扱いは異なるだろう。しかし、そもそもこのように平等を考える必要などあるのだろうか。この問題は生者の平等を考えるときよりも強く迫ってくるように思われる。
 そうしたことを考える上で、加藤典洋⑥「敗戦後論」(ちくま学芸文庫)、⑦「戦後的思考」(講談社学術文庫)、⑧「戦後入門」(ちくま新書)は有益である。
 ⑧はよく整理され読みやすいのであるが、これを十全に摂取するためにはやはり⑥、⑦を読まねばならないだろう。特に⑥所収の「戦後後論」で説かれる「可誤性」の可能性(確立されたイデオロギーに立って正誤を判断するよりは、誤っているかもしれない場所から判断する方が倫理的=文学というもの)は、もはやイデオロギーが後退し、個々人が独善に立って正誤を判断し、声を拡散し、サークルを形成する現代において、批判的に検討されるべきものとして重要である。また⑧において、マルコス政権後のフィリピンの対米政策が紹介されているが、これは恥ずかしながらまったく知らないことだった。すべてのことには功罪があり、この成功体験がドゥテェルテ大統領という功罪を生んでいるのだろう。
 新書は宇野重規「保守主義とは何か」(中公新書)をあげておきたい。トランプ大統領の選出に代表される反リベラル(ただし、保守主義=反リベラルではない)の潮流を理解するために、保守主義の基礎を学んでおいて損はないだろう。

 上記の通り、評論部門はふたつの大きな流れを追ったので、特に大賞は選ばない。

日本の小説:

 今年は再読ばかりであった。
 よってあげる本すらない。

海外の小説:

 S・ミルハウザー「エドウィン・マルハウス」(岸本佐和子訳、河出文庫)はナメル読書で取り上げた。その時には書かなかったが、小説を批判するために「小説」を書くのであるなら、あれほど長々書く必要もないのではないかと思わないでもない。
 今年はS・エリクソン「きみを夢見て」(越川芳明訳、ちくま文庫)、「Xのアーチ」(柴田元幸訳、集英社文庫)が訳出(文庫化)された。「黒人」や「女性」へのS・エリクソンの固執が何に基づくのかは知れないが、書き手の目配せは明らかであるにも関わらず、それらがいったいどのような問題を背負い込んでおり、その問題が(あるとしたら)どのように物語と有機的に結びついているのかはついに分からなかった。思わせぶりなだけに、肩すかしをくらった気分がした。
 V・ソローキン「青い脂」(望月哲男・松下隆志訳、河出文庫)は、スターリンが登場してからはとても楽しむことができた。様々な意匠を凝らしていると思われるのだが、およそ理解することができなかった。
 現代において探偵ほど物語にしやすい存在はないだろうが、ミステリのようにはじめからの開き直りがない限り、その形式においてP・オースターの影響を免れることは至難の業に違いない。それを、あまりにパルプであることに徹することによって、P・オースターの呪縛から徹底的に逃げきったのがC・ブコウスキー「パルプ」(柴田元幸訳、ちくま文庫)である。P・オースターの「探偵」がアイデンティティを失っている、あるいは剥奪されていくのだとしたら、C・ブコウスキーの「探偵」は属性が複数あり、ひとつが死んでも、すぐに別の属性が救い出される。使い捨てによる、不死である。

 M・ウェルベックを読むことによって、私ははじめて自信を喪失した西洋人、疲れ果てた西洋人、西洋人であることを哀しむ西洋人に出会ったような気分に陥った。評論などにおいて、西洋人であることを懐疑する西洋人があることは知っている。しかし、彼らがそう書くとき、彼自身は知識人として、西洋人からは浮遊したところにあり、言葉を書き付けるものの、その言葉の刃を引き受けてはいない。しかし、M・ウェルベックの作品において、ウェルベックは作品内の人物になりきり(時に同じ名前をつけることもある)、西洋人が、西洋人または非西洋人に責められるのではなく、他ならぬ西洋人である自分自身に責められ続ける様を引き受けている。そして、下にあげるいずれの作品(例外をあげるとすれば「服従」だろうか)においても、その責めを逃れることをーー作中で主人公はその道を模索するのであるがーー見いだすことはできない。

 ⑨「服従」(大塚桃訳、河出書房新社)
 ⑩「ある島の可能性」(中村桂子訳、河出文庫)
 ⑪「地図と領土」(野崎歓訳、ちくま文庫)
 ⑫「プラットフォーム」(中村桂子訳、河出文庫)

 ⑨より⑫へと読んでいくと読みやすいが、最もすぐれているのは⑫である。

 今年のブックオブザイヤーは⑫である。

 ※2016/12/31 03:30 
  誤字脱字、表現のおかしさはありますが、眠いので、年が明けたら直します。

 それではよいお年を。