ナメル#1 「変身」 | ナメル読書

ナメル読書

時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

「変身」(F・カフカ、多和田葉子訳、「すばる 2015年5月号」所収)


馴染みのない言語に触れる際の難しさの一つは、固有名にまつわる印象を認識できないということだ。日本語を知らない人間からすれば「山田」と「伊集院」との間の印象の差異を感じ取ることは難しいであろうし、ドイツ語に馴染みのない私にとって「グレゴール・ザムザ」なる名が果たしてドイツ語圏の人々にとっていかなる印象を与えるのかを正しく認識することは難しい。しかし、難しいは不可能を意味するわけではない。また正しく認識できないことは、正しくない認識を禁ずるわけでもない。表記される文字が、音としてもあることから、それを手がかりに私は勝手手前な印象を直感することが可能である。そして、「グレゴール・ザムザ」なる名は特にその直感を許容する余地の高いものであると思われる。


「グレゴール」は平凡な響きであるように感じられる。問題は「ザムザ」だ。極短い語に濁音がふたつも入っている。しかも、その濁音は「ザ」である。不安なる胸の高鳴りを感じさせる音であり、日本人である私はついつい「ざわざわ」を連想してしまう。また、これは「変身」なる作品を既に読んでしまった印象を逆投射しているに過ぎないのかも知れないが、「ザムザ」はとても虫的な感じがする。「ざざ虫」と同じようにどこかの地域で「ざむざ」と呼ばれる虫がいてもおかしくない気がする。


すると「グレゴール・ザムザ」とは、なんでもないものと不安で不快なるものとの合成であり、「変身」なる作品を予兆する意味と、なんでもないもの=なにであっても構わない意味とのこの混成は、いわゆる固有名ではなく、ただ小説のためにのみ便宜的につけられた名であり、そこにいかなる他の語を代入してもかまわない「虫的x」であろうと直感される。この作品において「変身」するのは、「グレゴール・ザムザ」でなくともよく、誰であっても構わないというわけだ。換言すればカフカは、ある固有名を持った人間の陥った特殊な事柄を書こうとしたわけではなく、誰にでも起こりうる一般的な陥没を描いたことになる。


「虫的x」は失調する。予兆は少なくとも意識化されず突然にだ。午前4時に起きるべきところを、なんと6時半になって起きるのである。並の寝坊ではない。


「家具を揺さぶるようなあの目覚ましの猛烈な音が聞こえずに安らかに眠り続けることなんてだれにもできっこない。安らかな眠りではなかったことだけは確かだけど、それだけに頑固な眠りだったかもしれない」


失調である。さらに「虫的x」は虫になったことにより身体を満足に動かすことができなくなっている。これもまた失調である。そして最大の失調は、こうした明らかな身体の不調にも関わらず、「虫的x」の思考は業務に支障をきたすことへの恐怖に引っ張られていることである。この身体への精神の無関心が、そうせざるを得ない思考の方向付けが、もはや病的といってよい失調である。


現在に生きる私たちにとってもはやおなじみであろうが、最大の病とは単に社会的生活に支障をきたす失調にあるのではなく、そうした失調した自分自身に対して無関心であることにある。あるいはそうした無関心へと精神を方向づける外的条件にある(「虫的x」は唯一天井からぶら下がるときに端的な楽しみを見いだすのだが、それは外的条件=家族によってすぐに不可能にされてしまう)。自分自身への無関心の果てに自死があることは、一度でも自分への無関心を経験したことがある人間ならば体感的に理解できることであろう。


この病が果たしてごく現在のものであるのか、あるいはカフカの生きる頃にすでに見いだすことのできるものであったのかは私は知らない(だから、カフカの「変身」が予言的であるかどうかも判断できないし、さして興味もない)。しかし、少なくともカフカは現在においても一般的に代入可能な病の話を作り出すことに成功したことは間違いないようだ。


すばる2015年5月号
すばる2015年5月号
集英社 2015-04-06
売り上げランキング :


Amazonで詳しく見る
by G-Tools