第116どんとこい「こころ」 | ナメル読書

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時にナメたり、時にナメなかったりする、勝手気ままな読書感想文。

 こんにちは てらこやです


 今回は夏目漱石「こころ」を巡って、「自然/不自然な暴力」、そして罪について考えてみたいと思います。


 はじめに「不自然な暴力」とは何か、該当箇所を下に引用します。


 「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思う間に死ぬ人もあるでしょう。不自然な暴力で」
 「不自然な暴力って何ですか」
 「何だかそれは私にも解らないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう」
 「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力の御陰ですね」
 「殺される方はちっとも考えていなかった。なるほどそういえばそうだ」


 このやりとりについて主人公である「私」は、「不自然の暴力で死ぬとかいう言葉も、その場限りの浅い印象を与えただけで、後は何らのこだわりを私の頭に残さなかった」と、回想しています。もちろん、「こだわり」を残さなかったのは物語中での時間内でのことで、この回想の時点においては「こだわり」を感じているのは言うまでもありません(そうでなければわざわざ回想することすら起こらないでしょう)。


 では何故「不自然な暴力」をめぐるやりとりが回想時になってこだわりと化したのか。素直に考えれば、「不自然な暴力」として例に出されている「自殺」を、当の発言をした先生が遂行したからでしょう。しかし、私はそれほど事は単純ではないと思います。なぜこだわりとなるのか、それは回想する「私」が「自然な暴力」を為したことに意識的にか、無意識的にか、気づいたからに他なりません。


 ここでは暴力を為してしまうことを罪と呼んでおきましょう。すると、「こころ」の中には少なくとも三つの罪が登場します。ひとつは先生の叔父の罪。すなわち財産横領の罪です。二つ目は先生自身の罪。すなわちKへの裏切り行為です。一つ目は先生を社会的な死(人間不信)へと追いやり、二つ目は実際にKを死に追いやります。先に引用した暴力の区分に従うなら、いずれも自覚的になされたという点で「不自然な暴力」と呼んでよいでしょう。


 では三つ目の罪とは何か。それは「私」による自覚なき殺人の罪です。「私」が先生と関係を取り結んだことにより、先生が自殺へと歩を進めたことは明らかです。先生は「私」への手紙に次のように書いています。


 「あなたが無遠慮に私の腹の中から、或生きたものを捕まえようという決心を見せたからです。私の心臓を立ち割って、温かく流れる血潮を啜ろうとしたからです。その時私はまだ生きていた。死ぬのが厭であった。それで他日を約して、あなたの要求を斥ぞけてしまった。私は今自分の心臓を破って、その血をあなたの顔に浴せかけようとしているのです」


 「自然な暴力」とは殺人や自殺といった人為のからむものとは別、病気や老衰、事故、天災などによって死が与えられることを指していると考えていいでしょう。しかし、ここにレア・ケースが登場します。まったく意図せずに(人為なく)、人を死に追いやってしまうこともまた区分としては「自然な暴力」に当たるのでしょう。それを起こしてしまったのが、単に「私」の好奇心というのも「自然な暴力」のレア・ケースが、時に「不自然な暴力」よりも理不尽、残酷であることを示しています。


(ちなみに「私」が先生に知り合ったのには理由らしい理由がありません。「私は単に好奇心のために、並んで浜辺を下りて行く二人の後姿を見守っていた」)


 自覚的にひとを死に追いやることよりも、無自覚にひとを死に追いやってしまったことの罪悪感がいかに強いものであるか、「こころ」の中では言及されていません。しかし、それが意識されるにせよ、無意識化にとどまっているかにせよ、その罪悪感が「私」に「こころ」なる回想を書かせたのではないかと私は推測します。

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