なんと悲しい会見だったのだろう。
 
 アメリカンフットボールの試合で起きた卑劣なタックル問題は、加害者のうちの一人である20歳の若者が記者会見にてすべてを話すという異例の事態を招き、たくさんのことが明るみになった。だが、一方、彼の言葉を聞きながら、胸が締め付けられる想いをした人も少なくなかったはずだ。
 
 会見をみて、多くの方がこう思ったのではないか。
 
 本当にこの選手が、あの卑劣なタックルをしたのか―――。

 

 謝罪会見と言えば、涙で、言葉にならないケースが多いなか、毅然として、真実を語り続けた。

 マスコミの誘導尋問のごとき質問にも、ひとたびもぶれることなく、自分の非を認め、指導者への恨み言は一切言わなかった。

 

 おそらく、あの会見の姿が本来の彼だったのではなかろうか。

 

 彼がどのようにして、その人間性をつくり上げたかは分からないが、男らしく、勇ましかった。
 
 なのに、なぜ、彼はあのようなプレーをしてしまったのか。
 
 会見でも語っていたように、追い込まれていたからに他ならない。
 
 僕は今回の状況は、、過去の日本のアマチュアスポーツ界でおきた事件と性質が同じだと思っている。
 
1、松井秀喜の5敬遠
2、桜宮の体罰による、生徒の自殺
3、今回のアメフトの問題。
 
 蔑ろにされているのは、子どもたちのスポーツを愛する心だ。
 
 勝利をするということを引き換えにして、スポーツをする楽しみを完全に奪っている。
 
 勝つために、手段を択ばなかった戦略。
 勝つためにをいいことに、従順な生徒に体罰を続けた教師。
 勝つために、相手の選手をケガさせるという手段にまで発展させた指導者陣の圧力。
 
 諸悪の根源は「勝利至上主義」である。
 
 「勝利至上主義」と書くと、多くの人間が勘違いするので、あえて補足しておく。
 
 いまの日本人の多くは、「試合で勝つことを目指す」ということと、「勝利至上主義」は「イコール」だと思っているが、これは全くの間違いだ。
 
 スポーツというのは、決着がつくものだ。
 
 だから、試合が始まれば、勝ちに行くのは当たり前だ。
 勝つために相手からヒット一本でも多く打って得点につなげようとするし、勝つために、ディフェンダーは相手のエースストライカーをマンマークする。そんなのは勝利至上主義でもなんでなく、単純にスポーツの当たり前の風景だ。
 
 勝利至上主義というのは、勝利することでしか得られるものがないと考える主義や、主張、思想のことだ。
 つまり、負けると全く意味がないと思っていて、ならば、勝つために何をしてもいいと思っているということなのである。
 
 ルール上、一人の選手に対して5敬遠をすることが許されていないわけではない。
 
 しかし、スポーツにはやっていいこととやってはいけないことがある。
 勝つために手段をえらばないということは、選手宣誓にあるような「正々堂々と戦う」には反しているし、クーベルタン男爵のスピーチとは重ならない。
 
 スポーツをする楽しみを奪って、勝ちを選ぶ。
 それはスポーツ本来がめざすべきところなのか。子どもたちが望むことなのか。
 
 結局、日本のスポーツ界は変わっていないのではないか。
 
 今回の件は、日本における学生スポーツの在り方を変えうる一つになるかもしれないとのんきな声も聞こえてくるけど、
 そうではなく、変えなければいけないと僕は思う。
 
 20歳みそらの選手が顔を出し、撮影を許可して、実名で真実を語ったのだ。
 
 彼は「アメリカンフットボールを好きでなくなっていた」といっていたが、2015年夏の甲子園決勝戦前にも、のちの優勝投手が「野球をやっていて楽しいと思ったことはない」と語っていた。
 
 勝利至上主義の傾向が強い競技であればあるほど、そう語る人が少なからず存在するのではないだろうか。
 
 勝利をうたい、どんどん有名になっていく指導者(大人)の陰で、いつも被害を受ける子どもたち。
 
 今回の事件はアメリカンフットボールだけでの問題ではなく、日本のスポーツ界がどう受け止めるか。

 

 これから変わるだろう、ではなく、変えるのだ。
 
 そんな想いにかられている。