森のblog

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3回目ワクチン以降の不調で神経難病に怯える毎日です。

母は八王子市八日町で生まれ、12歳までそこで育ちました。


当時、服部時計店と並び称されるほどの大きな時計店を営む大店の長女として生まれ育った母の昔話には、必ず「ねえや」(住み込みの若いお手伝いさん)とか「小僧さん」(丁稚奉公で住み込んでいる年少の男の子)が登場します。


慶應大学出身の祖父は、当時「慶應ボーイ」と呼ばれた校風そのままで、ハイカラなおぼっちゃまがそのまま大人になったような人でした。


商売をそっちのけで、毎日カフェに入り浸っては、文学や芸術談義に花を咲かせ、武者小路実篤らと共に「新しき村」の創設を手伝ったり…という日々を送っていました。


渋沢栄一の孫とも交流があり、母は幼い頃、祖父に連れられて渋沢栄一のお屋敷に行ったことがあるそうです。


母にとって初めての洋式トイレで、どうやって用を足したらいいのか分からずとても困ったのが1番強烈な印象だ、と言ってました。


その間、祖母は1人で店を切り盛りし、重い蓄音機を背中に背負って隣町まで配達したりしていたそうです。


祖母1人では店を繁栄させることはできずについに店は潰れて、祖母は祖父と離婚して、知り合いを頼って母を連れて大阪に移り住みました。


祖父はその後、渋沢栄一の孫に書生として迎え入れられ数年過ごした後、そのご縁で皇族の高松宮家に職員として雇われ定年までお世話になりました。


自由に好きなことをして生きた祖父に対して祖母はとても苦労して母を育てました。


母自身も、早くに自分の夫を亡くし、私たち姉妹を女手一つで何不自由なく育て上げてくれました。


そんな母が3年前に、「死ぬまでに一度八王子を見てみたい」と言うので、まだコロナが盛んだった中、ヒヤヒヤしながら東京に住む私の長女の家に連れて行き、母の古い記憶を辿り、長女の夫の運転で懐かしい場所をあちこち見て回りました。


「通りのお向かいは呉服屋さんだった」と言う母の記憶通り、目抜通りに面して老舗の呉服店がありました。


とりあえずあちこち写真を撮って長女の家に帰り、近くに住む長女のおしゅうとめさんに写真を見せると、「あら、これユーミンの実家よ」と言われました。


「えー!何がすごいってそれが1番すごい!ひょっとしてユーミンのお父さんかお母さんと友達だったんじゃないの?」と田舎者の私は、舞い上がってしまいました。


呉服屋さんには女の子がいて仲良くしてもらってた、と言ってましたが、本当に荒井呉服店のお嬢さんだったかどうかは不明ですニコニコ


このとき、無理をしてでも行っておいてよかったと思っています。


今母は心不全を煩い、先月2週間ほど入院しました。

入院時の検査で、肝臓にガンがあることもわかりました。

高齢なので、治療は何もしないそうです。


今は姉の家族と住んでいますが、トイレに行くのに2階から降りなければならないのと、毎日姉にきつく怒られてばかりいるので、母と姉のためにも老人ホームに行くことに決まりました。


今食べたものも思い出せないくらいに物忘れはひどいのですが、元々勉強が得意な人なので、認知症のテストはできてしまうので、「認知症」という診断名がつきません。


要介護度も低いものしかもらえないので、有料老人ホームかサービスつき高齢者住宅しか入れないそうです。


明日、仲介業者に頼んでピックアップしてもらった何軒か内覧に行ってきます。


実はここ2週間くらい、母を預かってお風呂に入れてあげたり、母の病院に付き添ったり、孫の子守を頼まれたり、自分の胃腸科や神経内科に通ったりで、毎日運転距離も長くて疲れが溜まってしまい、孫の風邪がうつったみたいで、昨日から熱が出ています。

(それでも夫は自分のご飯しか作らない)

↑愚痴


ほんの1日2日寝込んでいるだけで、筋肉が弱り、全身やわやわです。


これは寝ていることとは関係ないですが、最近また長距離運転中ペダルを踏む脛の筋肉が攣りそうに痛みピクピクし出すことが増えてきました。


気温のせいか最近倦怠感があり、足裏、横隔膜、腿は毎日のようにピクピクが続き、脚全体がザワザワしたり、坂道がキツかったり…。


4月にMRIを撮り問題なかったのですが、膵臓がんを疑う数値も少し高くて、そういえば膵臓のあたりが痛いなと思ったり、胃の調子が悪いのは膵臓か?と思ったり…。


孫の子守はできなくなったところで、ママがついてるからばあちゃんいなくても全く問題無し。

だけど、親の介護は私たちができなかったらどうなる?

親より先に倒れるわけにはいかない。


とても気弱になってしまっている病床の私なのでした。