先日、試験を控えた後輩を直接指導する機会があった。
そういう時、私はいつも
励まそうとするあまり、
相手にプレッシャーをかけすぎてしまう傾向にある。
前々からその傾向には薄々気づいてはいたのだが、
今回もすっかりそのパターンになってしまい、
何とその後輩を涙ぐませてしまった。
彼女にかけた言葉は純粋に心から
「頑張ってほしい。」「あなたならできるはず。」
と思って、の言葉。
そのことに偽りはない。
しかし、
たとえスタートが「善き思い」からだったとしても、
それを言葉にし、伝え続ける過程において
「コントロール」つまり、「支配」があったのではないか?
確かに
彼女に試験に合格してほしい、という思い以上に
「合格したいという気持ちが弱い。
こんなんじゃ、気持ちの上で合格できない。」
という、じれったい思いがあった。
後輩のペースを考えて、彼女の辿るプロセスを信頼して
それをすべてコントロールできない自分の限界を理解して
彼女に声をかけることはできなかったのか?
完全に自分の思ったとおりにならなくても、
一時的に彼女が幸せにならなくても、
少し先の未来に幸せがあるならそれでいいじゃないか。
私は神さまではない。
全てをコントロールしようだなんて、何て傲慢なのだろうか。
プロセスを信頼し、目に見えないものに委ねることを体得した時
次の扉が開かれる気がする。
そういう時、私はいつも
励まそうとするあまり、
相手にプレッシャーをかけすぎてしまう傾向にある。
前々からその傾向には薄々気づいてはいたのだが、
今回もすっかりそのパターンになってしまい、
何とその後輩を涙ぐませてしまった。
彼女にかけた言葉は純粋に心から
「頑張ってほしい。」「あなたならできるはず。」
と思って、の言葉。
そのことに偽りはない。
しかし、
たとえスタートが「善き思い」からだったとしても、
それを言葉にし、伝え続ける過程において
「コントロール」つまり、「支配」があったのではないか?
確かに
彼女に試験に合格してほしい、という思い以上に
「合格したいという気持ちが弱い。
こんなんじゃ、気持ちの上で合格できない。」
という、じれったい思いがあった。
後輩のペースを考えて、彼女の辿るプロセスを信頼して
それをすべてコントロールできない自分の限界を理解して
彼女に声をかけることはできなかったのか?
完全に自分の思ったとおりにならなくても、
一時的に彼女が幸せにならなくても、
少し先の未来に幸せがあるならそれでいいじゃないか。
私は神さまではない。
全てをコントロールしようだなんて、何て傲慢なのだろうか。
プロセスを信頼し、目に見えないものに委ねることを体得した時
次の扉が開かれる気がする。