その中でも、1988年に発足した『無問題倶楽部』は、隔月発行の会報誌の発行回数は136回、なんと2010年まで続きました。
2019年7月に行われた第五回成龍国際動作電影週・成龍国際影迷会にて、私はこの『無問題倶楽部』の制作に携わって来られたTさんとお会いし、いろいろなお話を伺いました。今回特別にTさんからバックナンバーをお借りし、私が特に印象に残ったエピソードをご紹介したいと思います。
合言葉は「八點半」
1991年2月1日から2月18日までの18日間、ジャッキーは『プロジェクト・イーグル(飞鹰计划)のキャンペーンで来日していました。ちょうどその時期は日本でも節分やバレンタインデーの期間で、ジャッキーは東京、名古屋、金沢、大阪、広島、福岡と各地のテレビ局での収録や、地域行事などに招かれて多忙を極めた行程だったようです。その期間、無問題倶楽部のメンバーの皆さんは各地でジャッキーのイベントや収録地に足を運びました。
(写真は1991年2月3日、東京浅草寺の節分会。ジャッキーは豆まき用のお豆をもぐもぐ食べている)
ジャッキーの来日を前に、無問題倶楽部の皆さんは、当時大阪梅田にある丸ビルが行っていた「バレンタインデーに屋上電光掲示板でメッセージを流します」という企画に応募し、ジャッキーへのメッセージを申し込みをしていました。しかし、その申し込みをした時点では、14日当日のジャッキーのスケジュールを誰も知らず、ましてや大阪に来るかどうかも誰も知らなかったのでした。
2月10日、無問題倶楽部のメンバーは、東京から名古屋に来るジャッキーを新幹線のホームで待ち、タクシーで移動するジャッキーのあとを追うように彼女達も別のタクシーを拾って追跡します。ジャッキーは、彼女達が乗るタクシーとすれ違うたびに、手を振ってくれたり、指差したりしてくれていました。それだけでも感激なのに、ジャッキーの乗るタクシーと、無問題倶楽部の方々が乗るタクシーが並んで同時に信号で停まった時、なんと、ジャッキーがタクシーの窓を開けて挨拶をしてくれたのです。
そこで、メンバーの広東語が話せる方が、「2月14日、バレンタインデーの夜8時半に、丸ビル電光掲示板でジャッキーへのメッセージを流す予定である」という事を、ジャッキーに伝えると、ジャッキーは真剣に話を聞いてくださり、「14日は大阪にいるよ」「何ビル?何時?」と何度も確認したのでした。
(奇跡の瞬間。タクシーの窓を開けて、メッセージを真剣に聴いているジャッキー。後ろにはウイリーさん)
そして、その後も各地で忙しくキャンペーンに駆け回るジャッキー。移動の合間に、無問題倶楽部のメンバーを追っかけファンの中から見つけるたびに、「八點半!(8時半だね)」と手で合図をしてくれました。
2月13日、金沢から電車で大阪へやってきたジャッキーを、無問題倶楽部の皆さんは駅で出迎え、彼女達が無言でジャッキーの後をついていくと、「8時半」とまたまた手で合図をしてくれました。
2月14日、バレンタインデー当日、偶然にもジャッキーは、丸ビル電光掲示板が
見えるホテルに宿泊。ホテルの部屋でインタビューなどの取材を受けていて、8時半を過ぎると、取材中だったにも関わらずジャッキーは時計を指差して、ホテルの窓から丸ビル電光掲示板をスタッフの皆さんと共に見てくれたのでした。
丸ビルの掲示板には、
「親愛的成龍❤️歓迎来大阪!我地永遠都支持積奇!無問題倶楽部」
と、大阪のバレンタインデーの夜空にくっきりと映し出されました。
その夜、食事に向かうためにホテルから出てきたジャッキーは、「見た見た!多謝多謝!」と大喜び。
2月15日、早朝にホテルから出てきたジャッキーは、無問題倶楽部の皆さんを見つけると、「無問題無問題!」と、サイン入り色紙をプレゼントしてくれました。(以上は、無問題倶楽部会報18号7ページから11ページを参照しました)
80年代、90年代のジャッキー旋風は凄まじいものがありました。東京、大阪では頻繁にジャッキー映画のプロモーションがあり、チケットも手に入らない状況だった一方で、無問題倶楽部の皆さんのように、ジャッキーのリアルな姿を間近に出会えた方々もいたことに、今さらながら驚きと感動にたえません。
私自身は『追っかけ』経験がないので、『追っかけ』というと鬼気迫る形相でなり振り構わずワーッと押し寄せるイメージでしたが、会報を読むと、彼女達は公共の場で騒いだり交通ルールに反したりすることはなく、いつもジャッキーやスタッフとは一定の距離を保ち、礼儀正しく接していたことがよく分かります。
当時はインターネットも携帯電話もない時代です。タクシーでジャッキーを追跡するにしても、ホテルの出口で待ち伏せするにしても、必ずジャッキーに会えるという確証はないのです。それでもメンバーの皆さんは粘り強く静かに待ち続け、ジャッキーに会えた一瞬の喜びを、一人でも多くの会員の皆さんに分かち合おうと、せっせと20数年会報を作り続けて来られた功績に、私は心から敬意を表したいと思います。
また、無問題倶楽部では、ジャッキーに倣って古切手を集めて送るチャリティ活動を会員に呼びかけたり、香港の撮影所に見学に行った方は、率先してゴミ拾いをしたりと、ジャッキーが常日頃言っている『実際に行動する』ことを体現されていました。
今の時代に、当時のようにジャッキーを『追っかけ』ることはもう出来ないということは誰もがお判りだと思います。当時はこの無問題倶楽部をはじめとする多くのファンの皆さんがジャッキー映画の興行成績を牽引していたのは確かです。
大同ツアーのあと、私はTさんを通じ無問題倶楽部で会報制作に携わって来たメンバーの皆さんとお会いする機会がありました。彼女達からはジャッキーに対し、今も変わらぬあたたかな敬慕と、あの当時一生懸命ジャッキーを追いかけた誇りを感じました。会報には書いていないジャッキーとの思い出、苦労話、裏話などの数々のエピソードを惜しみなく聞かせてくださったことに、私は驚愕と羨望を通り越して、これは伝説として語り継がなければならないと思っています。20数年続いた無問題倶楽部の会報誌は、もはやジャッキーの映画史を裏付ける貴重な資料と言えるでしょう。