こんにちは!かなです。

さて、昨日の続きで
成家班のメンバーによる
ビデオメッセージ。




余談ですが、
成家班の「◯家班」というのは、
中国の伝統演劇(京劇を含む)用語です。

日本語なら、「◯一座」って感じかな。
昔は資産家がお抱え劇団をもっていて、
自宅に呼んで鑑賞したり、パトロンだったりして、「家班」が沢山あった、その名残だと思われます。

座長の苗字や、シンボルとなる一字を冠につける「◯家班」、もともとは中国の映画界はなかった言葉(だと思う)を、
当時、興隆するカンフーアクション映画界に「輸入」したのは誰だったのだろう。

ジョンローンやラムチェンインを輩出した春秋戯劇学校の校長、粉菊花の一座は
「粉家班」と名乗っていたそうだし、
ユェン・ウーピンの袁家班、
サモの洪家班と沢山ありますが、
京劇経験者が多いです。


さて昨日の続き…


張耀華氏:「私は、成家班に入ってもう30年余りになります。
若いあなたたちの世代に聞いてほしい、
私は、成家班にいて、後悔したことは一度もないのです。」

「大哥は、若い頃からああいう男気のある性格で、義侠心や仲間を大切にするんだ。」

王耀氏:「未だに覚えているのは、
私は大哥について副武術指導をしていた、あともう一人、彭鋼という奴とね。私たち二人はよく一緒に彼についていた。
その時の彼(大哥)のギャラはまだ数千香港ドルで、武術指導のギャラは一万二千ドルだった。(武術指導のギャラの方が、役者としてのギャラの数倍多かった)
彼(大哥)は、そのギャラを三人で山分けしたんだ。大哥は4000ドル、私と彭鋼にそれぞれ4000ドルずつ。」

山分けのエピソードでメンバーたちがこれほどまでに感動しているのは、当時の労働条件が劣悪で、せっかくのチャンスが流れたり、もらえるはずのギャラがもらえなかったりといろいろあった中で、成龍兄の誠意がよほど嬉しかったんだと思う。

彭鋼氏:「その頃、僕たちは20代そこそこだったからね…
台湾で住む家を買おうとしたとき、お金がなくてねえ。台湾で当時家は百数十万元だったかな。その時、大哥が20万元持っていけ、と。これでマンションの頭金にしろ、とくれたんだ。その時、彼だってそんなにお金がなかったはずなんだ。やっと少し有名になったくらいの頃だった」

張耀華氏:「大哥は私に車を一台くれました。運転するたびに、私はいつも大哥のことを思い出す」

楊升氏:「彼には、優勝旗(チャンピオンフラッグ)」を贈りたい。」
童川氏:「一言では言い表せない。ただ、しみじみと抱きしめたいと思う。」
王耀氏:「彼には、100歳まで生きてもらいたい。そうすれば、兄弟たちの今後も100年、見守ってくれるだろう」

『今、もし大哥に会えたらどんなメッセージを贈りたい?』という問いがあったのかな。

楊升氏:「成家班も(結成から)40年経った。多くの仲間たちにも、もうしばらく会ってない。」

張耀華氏:「(広東語で)大哥、今日まで私に多くの機会を与えて下さってありがとうございました。
今日、この番組でまた多くの人がこの張耀華を知ってくれるのも、私が大哥に長年ついてきたからです」

ここで、サプライズ!!
司会のエリック・ツァンとVTRに見入っている大哥。
その後ろで、もと成家班で、映画監督にもなったスタンリー・トン(唐季禮)を先頭に、ビデオメッセージに出演していた仲間たちが会場に登場!コソコソと、大哥の後ろに並び、しゃがんで隠れようとするメンバーも。
観客は気づいてどよめくが、大哥は未だ気づかず、VTRに感慨深げ。

エリック:「(成龍兄を小突いて)大哥、何年になる?」
成龍兄:「(感慨深げにため息をついて)40年。」
エリック:「40年か。何人も、しばらく会ってないんだよね。
それぞれが語ってくれたのは、すべて心からのことばだね。皆んな、早くとても大哥に会いたいと思ってるだろう。
会いたいかい?」

ここで、歴代メンバーはこっそり、現役メンバーと入れ替わって、成龍兄の後ろにずらりと並ぶ。

成龍兄:「この…(感極まって言葉が詰まる)…この40年、彼らは命懸けで僕について来てくれた。手も折り脚も折り(ケガが絶えなかった)、
早朝5時、6時にはもう病院に運ばれたりして。そんなこと、知る人もいなかっただろう。
今日、僕はオスカー終身賞をもらったけれど、このオスカーは成家班メンバーと分かち合うものだ。
今日、僕たちが世界に名を馳せるようにまでなった。この成家班は今第7期の人たちだ。
それでも、みな歳をとっていく。自分だってそうだ。
一期ごとの成長を見る度に…

振り返ってあれ?と二度見する成龍兄。
わあ…!!!

王耀氏:「大哥!」
彭鋼氏:「大哥!!」

もらい泣きのエリック。
涙を拭っている観客の女の子たちが
とても可愛い。



③に続きます。