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今回も、見捨てられる前に捨てる私の一節を書きたいと思います。
※前回の続きです
『…子どもが大人になろうとするとき、いろいろなつまずきを経験する。しかし、それはその背後に何らかの問題提起を持っているものである』
[河合隼雄著 「大人になることのむずかしさ」 P36 岩波書店刊]
追想の中の小学生の私です。金魚を飼っていました。
低学年のころコメットさんという番組が好きで、同じ名の金魚をデパートの屋上で見つけたのが確か始まりだったと思います。
以来、見慣れた光景の一部となりました。
最初の私の係りは決まった時間にえさをあげる、でした。
引越しをしたり寿命を迎えて代は替わります。そのたび機会をみてはまた求めました。
お店の人が入れてくれる、細い赤色のひもの付いた小さな透明の袋を今でも覚えています。
この追想は二つの場面を思い起こさせます。
帰りの電車の中です。座席に並んで坐っています。
私は提げていた袋を指から落としてしまいます。
拾い上げた水の減った袋の中、金魚は苦しそうでした。
黙りこくる目線の先、つたってゆく水の線が揺れる車両の床を黒ずんだ色に変えていきます。
斜め前のスーツを着た男性の靴まで達したところまで、記憶しています。
同じ過ちを何度も繰り返したかに思うのですが定かではありません。
最初あった金魚鉢はいつか水槽に置き替わっています。
掃除をしなくなった水槽は苔だらけになり、緑色の向こうに影がみえるほど覆われていました。
分かってはいます。ただどうにもならないのです。
手は動かず時が過ぎ緑はより一層色濃さを増してゆきます。
幾日経ったときか、業を煮やした語調が言います。
「お世話をしないのなら飼う資格はありません」
抗う様子もみせず直立し、俯く子どもの私がいます。
そして渡された袋に水を入れます。次に金魚をそっと移します。靴を履き、玄関の扉を開けます。
外には夕闇が迫っていました。
坂を下りきり、陸橋を上っていきます。平坦な箇所を過ぎ階段を降りると水の流れが見えます。
塗り固められた川べりの橋の下、経り路になっていました。
ほとりに立ち、水の中を見ています。
べそをかきながら持つ袋の重みと手の中で動く金魚の手触り、今も忘れることが出来ない記憶です。
どれ位の間そうしていたのか、曖昧でしかありません。
ついに金魚を放したときの様子ははっきりと覚えています。
川の流れに真赤な身体を振わせまるで歓んでいるかのようにさえ見えます。
尾びれを揺らしたかと見る間に、背中がすっと消えました。
私の場合、のお話です。
「アダルトチルドレンは希望の言葉」です。
それでいいんです。大丈夫です。
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