……さて。
まだまだ語ります、宙組2016年版『エリザベート』
文章的都合で、敢えて敬称を略す事がありますが、どうぞご寛恕を頂けますようお願い申し上げます。
本日のお題は『アンドロギュヌス・朝夏トート』
アンドロギュヌスは、両性具有という意味。
エリザベートのプログラムより、小池修一郎先生がトート像について、こう言及されています。
「原台本のトート(死)は、『現代のポップスターのように両性具有的である』と書かれている」
「デヴィッド・ボウイや、フレディ・マーキュリー等、ロックスターをイメージして想定されたのは明確」
「仮にボウイがトートを演じたとしても、仮装した男性に過ぎない」
「男役は性を超越し、かりそめの肉体で『男性の感受性』を演ずる三次元的存在」
「もし日本で、エリザベートを初演したのが宝塚以外だったなら、これほどの成功は収める事はなかっただろう」
そして、朝夏まなと演ずるトートを
「古典的でノーブルな死でははなく、時代を超えて存在するアンドロギュヌスとして、本来のトート像に近い」
朝夏さんのトートは衣裳も、風情も、確かにロックスターを彷彿とさせます。
アヴァンギャルドな空気感を漂わせていて。
登場人物群の中で一人、良い意味で浮いてるというか。
異彩を放っています。
同時に、シシィやルドルフと絡み、エルマーやジュラたち革命家や市民の中に混ざっても、違和感はありません。
不思議な存在感。
不穏なオーラ。
畏怖と憧れ。
惹きつけるチカラ。
これを言葉で表現するなら、『カリスマ』と言うのかもしれません。
今回のエリザベートのプログラムは、従来の宝塚歌劇のそれとは異質な表紙となっています。
従来のプログラムは、トップスターのアップまたはバストショット。
ですが、今回の『エリザベート』は全身のショット。
まるで、『Vogue』の表紙。
死神というより、スタイリッシュなスーパーモデルです。
薄墨色の世界に、黒いシースルーの長衣を羽織った朝夏まなとが佇む。
心持ちあごを上げ、こちらを見下ろすような。
どこか傲岸不遜な、それでいて放心したような。
誰かを見据えているような……何も見ていないような。
異次元に棲む、美しき異形。
小池先生と共同演出を務められた小柳奈穂子先生は、幻想的な世界を現出させるセンスをお持ちです。
朝夏さんもまた、自己プロデュース力が高い人。
朝夏まなとが体現するトートは「原点に回帰したトート」
それをより効果的に魅せるため、練りに練られたヴィジュアルであり、動きであり、発声なのでしょう。
今回、今までにない試みの一つが、ウィッグ。
銀髪ウェーブが、歴代トートに受け継がれてきました。
ところが、朝夏トートは暗い色のストレートヘア。
蒼白い肌が際立ち、背の高さがより強調されるような。
私は現時点で2回観て、2回ともB席なので、細かい質感は判断しかねますが、皮革っぽい衣裳が含まれてますよね。
確かにロック・テイストが感じられます。
朝夏さんは、単に目新しさを求め、今までにない髪型・髪色を選んだ訳ではないと思います。
己が演ずるトートが、より魅力的に映るよう、研究を重ねた末の選択でしょう。
銀髪より暗い髪色を、ウェーブよりストレートを選んだのは、成功だと思います。
全編、朝夏さんが(おそらく小柳先生とも相談しながら)こまやかにプランニングしたであろう事が窺えます。
(小池先生にも指導は仰いだでしょうけれど、細部については小柳先生が任せられていたと思われます。 推測ですが)
例えば、『最後のダンス』
朝夏トートは、基本的に譜面に忠実に歌っている様子が伺えます。
ただ、ところどころ、歌い終わりに少しニュアンスを加えていますね。
時として、噛みつくような。
あるいは、舌なめずりするような。
撥ねつけながら、妖艶に誘うトート。
高らかに「お前は俺のもの」と宣言します。
ドSですね。
私は好き…♡(←ドM…?)
例えば、名台詞「死ねばいい」
フランツ・ヨーゼフの浮気を知り、絶望するエリザベートに「死ねばいい」と言い放つトート。
これまた、冷たく突き放すような。
あるいは、一方的に宣告するような。
「死ねや、オラオラ」
鬼や……いえ、死神でした。
でもね……これは、プロポーズなんですよね、トートなりの。
分かりづらいけれど。
照れ屋さんなのかな?
甘え下手なのかな?
……いやいや。
不器用なんですね。
トート閣下……か、かわ…かわい…い…!
……おっと、失礼いたしました。
シシィに拒絶されるたび、涼やかな顔で撤退しますが、内心傷ついてるだろうなと…。
勝手に想像して、胸を痛めております…。
また、最初は恐れていたシシィが、ハンガリーの女王に君臨する頃には、自信満々だったりするもので。
朝夏トートは一貫して鉄仮面ですが、ある意味、一貫性があるんですよね。
最も表情に変化があったのは、シシィに恋をした瞬間だと思います。
以来、一途にシシィを追い求めます。
どんなに拒絶されても、いちいち動じず、すっと身を引く。
あ、言いたい事は言い放つけど。
「お前は俺のもの」とか、「死ねばいい(=俺の元へ来い)」とか。
そして、決して諦めない。
言ってる事は強引ですが、無理強いはしません。
恐ろしい存在のはずですが、この一途さ、紳士的な振る舞いは、見方を変えれば「理想の王子様」とも言えます。
何があっても必ず、ずっとずっと、私を見守ってくれる存在。
それは、エリザベートの重苦しい孤独を埋めて余りあるもの。
エリザベートがずっと求めていたものでした。
朝夏トートは、妖しくエロティックな造形を見せています。
それは、甘やかな誘惑の体現といえましょう。
それでいて、冷たく孤高で、他を寄せ付けない空気感をまとってもいる。
誘いながら、撥ねつける。
そのアンビバレンツ。
同時に、一貫して変わらず、決して揺るがない心情を、無彩色に近い表情を通じ、表現しているような。
なまめかしく、妖しく。
力強く、傲慢な。
冷たく、恐ろしく。
忍耐強く、真摯な。
様々な彩りを見せながら、ほぼ表情を動かさない…。
これは、非常に高度な表現だと思います。
朝夏まなとは、男役として恵まれた体軀と資質を持っています。
ですが、男らしくはあっても、男くさくはない。
セクシーでありながら、男性でも女性でもない香りを醸し出すような。
中性的で、官能的な……カリスマ。
原台本に描かれ、小池先生が目指された『トート(死)』を、朝夏まなとは舞台に蘇らせています。
「覚めながら見る夢」の醍醐味ですね。
にほんブログ村 ヾ(^-^)ありがとうございます♡(^-^)/'
まだまだ語ります、宙組2016年版『エリザベート』
文章的都合で、敢えて敬称を略す事がありますが、どうぞご寛恕を頂けますようお願い申し上げます。
本日のお題は『アンドロギュヌス・朝夏トート』
アンドロギュヌスは、両性具有という意味。
エリザベートのプログラムより、小池修一郎先生がトート像について、こう言及されています。
「原台本のトート(死)は、『現代のポップスターのように両性具有的である』と書かれている」
「デヴィッド・ボウイや、フレディ・マーキュリー等、ロックスターをイメージして想定されたのは明確」
「仮にボウイがトートを演じたとしても、仮装した男性に過ぎない」
「男役は性を超越し、かりそめの肉体で『男性の感受性』を演ずる三次元的存在」
「もし日本で、エリザベートを初演したのが宝塚以外だったなら、これほどの成功は収める事はなかっただろう」
そして、朝夏まなと演ずるトートを
「古典的でノーブルな死でははなく、時代を超えて存在するアンドロギュヌスとして、本来のトート像に近い」
朝夏さんのトートは衣裳も、風情も、確かにロックスターを彷彿とさせます。
アヴァンギャルドな空気感を漂わせていて。
登場人物群の中で一人、良い意味で浮いてるというか。
異彩を放っています。
同時に、シシィやルドルフと絡み、エルマーやジュラたち革命家や市民の中に混ざっても、違和感はありません。
不思議な存在感。
不穏なオーラ。
畏怖と憧れ。
惹きつけるチカラ。
これを言葉で表現するなら、『カリスマ』と言うのかもしれません。
今回のエリザベートのプログラムは、従来の宝塚歌劇のそれとは異質な表紙となっています。
従来のプログラムは、トップスターのアップまたはバストショット。
ですが、今回の『エリザベート』は全身のショット。
まるで、『Vogue』の表紙。
死神というより、スタイリッシュなスーパーモデルです。
薄墨色の世界に、黒いシースルーの長衣を羽織った朝夏まなとが佇む。
心持ちあごを上げ、こちらを見下ろすような。
どこか傲岸不遜な、それでいて放心したような。
誰かを見据えているような……何も見ていないような。
異次元に棲む、美しき異形。
小池先生と共同演出を務められた小柳奈穂子先生は、幻想的な世界を現出させるセンスをお持ちです。
朝夏さんもまた、自己プロデュース力が高い人。
朝夏まなとが体現するトートは「原点に回帰したトート」
それをより効果的に魅せるため、練りに練られたヴィジュアルであり、動きであり、発声なのでしょう。
今回、今までにない試みの一つが、ウィッグ。
銀髪ウェーブが、歴代トートに受け継がれてきました。
ところが、朝夏トートは暗い色のストレートヘア。
蒼白い肌が際立ち、背の高さがより強調されるような。
私は現時点で2回観て、2回ともB席なので、細かい質感は判断しかねますが、皮革っぽい衣裳が含まれてますよね。
確かにロック・テイストが感じられます。
朝夏さんは、単に目新しさを求め、今までにない髪型・髪色を選んだ訳ではないと思います。
己が演ずるトートが、より魅力的に映るよう、研究を重ねた末の選択でしょう。
銀髪より暗い髪色を、ウェーブよりストレートを選んだのは、成功だと思います。
全編、朝夏さんが(おそらく小柳先生とも相談しながら)こまやかにプランニングしたであろう事が窺えます。
(小池先生にも指導は仰いだでしょうけれど、細部については小柳先生が任せられていたと思われます。 推測ですが)
例えば、『最後のダンス』
朝夏トートは、基本的に譜面に忠実に歌っている様子が伺えます。
ただ、ところどころ、歌い終わりに少しニュアンスを加えていますね。
時として、噛みつくような。
あるいは、舌なめずりするような。
撥ねつけながら、妖艶に誘うトート。
高らかに「お前は俺のもの」と宣言します。
ドSですね。
私は好き…♡(←ドM…?)
例えば、名台詞「死ねばいい」
フランツ・ヨーゼフの浮気を知り、絶望するエリザベートに「死ねばいい」と言い放つトート。
これまた、冷たく突き放すような。
あるいは、一方的に宣告するような。
「死ねや、オラオラ」
鬼や……いえ、死神でした。
でもね……これは、プロポーズなんですよね、トートなりの。
分かりづらいけれど。
照れ屋さんなのかな?
甘え下手なのかな?
……いやいや。
不器用なんですね。
トート閣下……か、かわ…かわい…い…!
……おっと、失礼いたしました。
シシィに拒絶されるたび、涼やかな顔で撤退しますが、内心傷ついてるだろうなと…。
勝手に想像して、胸を痛めております…。
また、最初は恐れていたシシィが、ハンガリーの女王に君臨する頃には、自信満々だったりするもので。
朝夏トートは一貫して鉄仮面ですが、ある意味、一貫性があるんですよね。
最も表情に変化があったのは、シシィに恋をした瞬間だと思います。
以来、一途にシシィを追い求めます。
どんなに拒絶されても、いちいち動じず、すっと身を引く。
あ、言いたい事は言い放つけど。
「お前は俺のもの」とか、「死ねばいい(=俺の元へ来い)」とか。
そして、決して諦めない。
言ってる事は強引ですが、無理強いはしません。
恐ろしい存在のはずですが、この一途さ、紳士的な振る舞いは、見方を変えれば「理想の王子様」とも言えます。
何があっても必ず、ずっとずっと、私を見守ってくれる存在。
それは、エリザベートの重苦しい孤独を埋めて余りあるもの。
エリザベートがずっと求めていたものでした。
朝夏トートは、妖しくエロティックな造形を見せています。
それは、甘やかな誘惑の体現といえましょう。
それでいて、冷たく孤高で、他を寄せ付けない空気感をまとってもいる。
誘いながら、撥ねつける。
そのアンビバレンツ。
同時に、一貫して変わらず、決して揺るがない心情を、無彩色に近い表情を通じ、表現しているような。
なまめかしく、妖しく。
力強く、傲慢な。
冷たく、恐ろしく。
忍耐強く、真摯な。
様々な彩りを見せながら、ほぼ表情を動かさない…。
これは、非常に高度な表現だと思います。
朝夏まなとは、男役として恵まれた体軀と資質を持っています。
ですが、男らしくはあっても、男くさくはない。
セクシーでありながら、男性でも女性でもない香りを醸し出すような。
中性的で、官能的な……カリスマ。
原台本に描かれ、小池先生が目指された『トート(死)』を、朝夏まなとは舞台に蘇らせています。
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