暫くすると、小野寺先輩が外出先から帰ってきて、近況を確認しあった。女性は、先輩の奥さんだった。
小野寺先輩によると、日本労農人民党は大幅に縮小し、創立期のメンバーはもう誰もいない。
残っているのは、大陸からの援助と指導で活動している者だけだった。
他の新左翼と呼ばれたグループも同じ様な状態で、大部分はスピリチュアルな団体に流れたようだ。
神州光輪会は、そのスピリチュアルな団体の中で最大となり、多くの者を引き付けている。
彼らの特徴は、地方での農業生産活動にある。小さな国家を目指しているのだ。
政治団体としては届けられていないが、本部は宗教法人であり、下部組織として農事組合法人や、学校法人などを持っている。
だが、彼らの団体は、入会するときに所有する財産のすべてを教団に委託する契約を結ばせている。その為に脱退するときに訴訟騒ぎになったこともある。
私は、元左翼の花澤が、どういう経緯で宗教団体を作ったのか疑問だった。
「花澤行雄が神州光輪会を創ったのは、どういう目的の為だったのでしょうか?」
小野寺先輩が言うには、「花澤の実家は元々お寺で、何宗だったかは忘れたか、仏教の馴染みがあったんだ。
それと、左翼の60年安保闘争の時に、一般学生を楯にとるやり方に疑問を感じた様だ。彼は、入試妨害や大学封鎖などに反対していた。
花澤は、各セクトによって指導された左翼革命運動の独裁を感じたのだろう。
60年安保闘争が失敗に終わった後、彼は全学連主導の組織運営を批判した。
彼は、次に川南一作の指導した右翼クーデターに関与した。川南が主張したのは、日本の再軍備によるアメリカ支配からの独立だった。
戦後において、多くの右翼はアメリカ支配の手先となってしまった。反共主義を優先させるあまり、国の根幹をアメリカ支配に任せ、国防もアメリカ頼みで良しとした。
左翼は逆に、反米を優先するあまり、ソ連の侵攻を無視した。左右どちらも、日本の根幹を失ったまま、アメリカに着くか、ソ連に着くか、或は中国の毛沢東主義を頼るか、という状況だった。
それらに反対して、日本の独立を主張するものは少数派だった。
川南の一派は、政治的には反共主義だが、根っこには、九州の炭鉱の閉山という労働者の問題があった。だから状況は逼迫していると思ったのだろう。
しかし、九州と東京では状況が違う。炭鉱の閉山による、労働問題・経済問題は東京では問題にならない。
むしろ、東京は高度経済成長期であり、民衆はアメリカ支配を喜んでいたのだ。
クーデターに失敗した後、花澤は革命運動からは手を引いた。そして、精神の革命を目指すことになった。
自給自足を旨とする社会を作るという事だ。アメリカにも、ソ連にも頼らない。それは、国内では各地方の自立を目指すことだ。」
「では、花澤の宗教的運動は彼独自の物なのでしょうか?」
「当時、60年代から70年代にかけてアメリカではヒッピー文化や、環境主義者が出て来た頃だ。
ローマクラブの宣言では人口爆発が自然を破壊し、文明の崩壊をもたらすとされていた。解決策としては、反グローバリズム、地方分権主義がもてはやされたのだ。
それらの影響を受けたこともあるだろう。その一つとして、ネパールでのドラッグやタントリズムに触れたこともあるのではないか。当時は、ネパールやチベットの神秘主義、密教曼荼羅が流行っていたからね。」
「花澤はネパールに行ったのですか?」
「そうだよ、そこで山本一郎先生に会っていたはずだよ。」