渋谷で待ち合わせて2人で銀座線に乗って上野広小路で降りた。だが、実際に歩いてみると、40年前では街の様子も違っていたのだ。
御徒町の宝飾街は、バブルへ向けて拡大の真っ最中だった。人々も若者が圧倒的に多いのだ。若者のエネルギーが街のエネルギーになっている。
没落するアメリカと、再び昇る日本、その1つの象徴が宝飾品や美術品の販売の拡大と庶民への普及であり、この御徒町の賑わいだったと言える。
40年後には、この人たちがそっくり年をとり、60代、70代が中心の街になってしまうわけだが。いくら新しい若者が街に来たところで、絶対数が違う。街全体が老化、縮小してしまうのも納得である。
私自身かつてはアメ横で登山用のバックパックなどを買い求めたことがあった。それが、40年後にはやはり登山も高齢者の時代である。戦後の経済が、結局人口のボリュームの多い団塊の世代を中心に組み立てられている為、すべてのシステムが老化していく。40年前の上野・御徒町を歩いてみて、自分自身の老化をかえって意識せざるを得なかった。
あの山名響子が尋ねたという石材工房を探したが見つからなかった。しかし、石材工房自体はいくつもあり、石の修理も簡単に引き受けてくれた。
修理を待っている間に、近くの喫茶店で待つことにした。
「梢ちゃんは波多野さんの会社で働いていたと言ってたけど、同僚で山名響子さんという人は知っていますか?」
「山名響子ですか?響子という人は、知りません。」
「あ、そうなんだ。あの、梢ちゃんはいつ頃まで波多野さんの会社で働いていたの?」
「私はただのピンチヒッターだったので、1年位前に2か月だけ働いたんです。」
「ピンチヒッターって、どういう意味?」
「社員さんが急に辞めちゃって、次の人が決まるまでの間ということで頼まれたんです。」
「へえ、頼まれたっていうことは、じゃあ波多野さんとは元々何かの知り合いだったの?」
「うーん、あの、本当のことを言うと、波多野は私の父なんです。」