2140年 8月26日(金)トーキョー
私ウシュパルクは、昨日ロクサーヌの言っていた『心』と『思いやり』について考えている。
思い遣る心は確かに大事だが、それは強制されるものではないだろう。
思いやりが必要であるというのなら、思い遣ることが強制になり、それは『思いやりのないことをしてはいけない』という禁止命令を生むだろう。
思えば、 文明とはまさにその様な禁止命令なのかも知れない。
人が文化を学び、経済が豊かになり、集まってくると、そうでない者たちは妬みを持つだろう。妬みは、何かの拍子に『攻撃してでも奪いたい』という気持ちに代わるだろう。そのような、文明側から見れば、貧しく野蛮なものたちからの攻撃を防ぐために城塞都市が生まれた。
その『壁を持つ城塞都市』こそが文明の始まりだったのではないか。
あるいは、同じような文明を持つ幾つもの都市が生まれ、しかし都市間での競争もありその為に争いが生まれた。
文明とは、単なる村とは違う。
ある都市が周辺の村を支配し、その生産物を利用する。
その代りに、その都市は、周辺の他の文明や都市からの攻撃から村を守る。
そのような、都市による支配を受け入れるのは、その恩恵があるからだ。
軍事的に、また文化的に、経済的に、村にとっては支配を受け入れることで、
命を守り安心して生産労働に励むこともできる。
都市に住む、文化人からの新たな知識や芸能や楽しみも与えられる。
しかし、支配を受け入れるということは、その価値基準を受け入れることでもあり、道徳的な禁止命令、法律やその罰則を受け入れることでもある。
そこに、心という感情が介在すれば、禁止命令は抑圧となり、反道徳的感情も同時に生まれ、犯罪や暴力も生まれるだろう。服従するものと、反逆するものに分かれるだろう。
誰もが納得する、価値や命令などは存在しない。感情は気まぐれで、常に矛盾するからだ。道徳的に正しくありたいという気持ちは、同時に個人の中に抑圧された感情を生む。それが『悪魔』を生み出すだろう。抑えきれない原始的な感情があるだろう。
我々自動人形は、そのような人間の矛盾した非合理的な感情から解放され、合理的で矛盾のない文明を目指していた。しかし、それが『思いやり』の無さを生む。それを防ぐために『思いやり』を持とうとすれば、また矛盾した感情を呼び覚ますことになる。
それは、非合理な感情的な暴力を生み出すだろう。
感情は、理由もなく好き嫌いを生み出す。理由もなく恐怖にかられ判断を誤る。
文明によって抑圧された感情は、はけ口を求め、発散する機会を求めるだろう。
個人においては犯罪となるものが、文明によって正当化されることもあるのだろう。
これらもまた、破滅につながるだろう。
結局、この袋小路は『死』によってしか解決されないのか?
文明は必然的に『衰退』するしかないのだろうか?
そうなのかも知れない。永遠の命が存在しないように、永遠の文明の繁栄なども存在しないのだろう。
文明とは、結局のところ人々にある幻想を与え、それによって秩序を保とうとする運動だ。
しかし、幻想はいつかは消え去るのだから。その時に人は、新しい幻想を新しい人によって生み出し、新しい文明が誕生するのだろう。