2140年 8月15日(月)トーキョー
私ウシュパルクはロクサーヌの言った『責任』について考えている。
私は、アフガニスタンで生まれた。そこはかつて、アレキサンダー大王が東征したのちギリシャ人の植民が行われバクトリア王国と呼ばれた地域だ。
アレキサンダー大王が通ったカイバル峠は、その後、イスラムの征服者や、モンゴルの征服者なども通った文明の十字路と呼ばれるところだ。その歴史の結果アフガニスタンでは部族の争いが絶えず、安定した政治が無くなってしまった。私が、ヨーロッパではなくニッポンでの研究を選んだのは、ニッポンの長い歴史から学ぶことがあると思ったからっだ。ニッポン人の責任感の強さや、繰り返す自然災害に対しても諦めることなく日常生活を静かに送る態度だ。
ニッポンでは1945年の降伏後、一部の「インテリゲンツィア」とマスコミによって、「ボリシェビキと民主主義」への礼賛が始まった。
彼らは、ニッポンの天皇と軍部の「責任」を問い、天皇の犯罪を主張し、ニッポンの「無責任体制」がニッポンの固有の文化的伝統だと主張した。
しかし、そのことによって明らかになったのは、ニッポンには「知識人」が存在しないという事実であった。
ニッポンには、その後、彼らの目論見通り「無責任」がはびこった。
初め、ニッポン人は、戦争の責任を国民全体の責任として各個人が責任を負おうとしたのだが、繰り返されるマスコミと「インテリゲンツィア」によるフェイクニュースのため、いつしか自らの責任を忘れてしまったのである。
ヨーロッパでは知識人や僧侶が社会のリーダーと目され、愚かな「大衆」は羊飼いに従う「羊」であると、長い間信じられてきたし、それに反することは神の意志に反することとされてきた。
しかし、ニッポンの歴史を見ると、自然災害の多さが、人々の目を覚まさせてきたように思う。
「盲目の羊」では生き抜けないのである。
ニッポンでは自ら『ものも知らぬ東蝦夷(あずまえびす)』と名乗る「武士」が社会のリーダーであり、実践的でない形而上学は役に立たない「お題目」とされてきた。
13世紀にできた武士による法律は、庶民の間の『ならい』を貴族ではなく、武士が法律にしたという点で、画期的だったと思っている。
「知識」は武士をはじめとする大衆の物であり、生活に役立つものであった。
その為、各個人が、生きるための責任を負う体制であり、「盲目の羊」ではなかったのである。
16世紀に南蛮人が日本でカトリックを広めようとしたが、その陰で、多くのニッポンの婦女子が奴隷としてローマの奴隷市場で売買されているのを、ニッポンの遣欧使によって目撃された。
そのことが、ニッポンの為政者にも報告された。
ニッポンでは怒った支配者によってそのことが問いただされ、キリシタンバテレンは禁教とされた。
日本におけるキリシタンにとっては不幸の始まりだが、奴隷とされる多くの婦女子にとっては幸いだった。
私は、国の支配者が国民のためにそのように怒り、責任を取ろうとすることのできる国であり、また国民も各人が自分で責任を取ろうとする点を学びたいと思っている。