2140年7月24日(日)トーキョー

 『私が思う大事なことは、頭を真っ白にして、自分で考えるということです。毎日をただ日常のことで埋め尽くしていると、頭はそれらのことで一杯になり考えることができません。考えるとは、言葉で埋め尽くすことではありません。

 

 まず一度立ち止まって、頭の中から、言葉を取り除き、様々な頭を埋め尽くそうとする事柄から解放しなければ、考えることはできないのです。これは、人から言われてできることではありません。

頭に浮かぶ言葉を消す、という作業を実際に試して頂ければわかって頂けるのではないかと思います。

 

 言葉を使わずに思考することが果たしてできるのか?

日本語であるとか、英語であるとか、フランス語であるとか、それらの教えられ、条件づけられた言語を取り除くと、その先に言葉ではない世界が見えてきます。例えば、ベランダから見える公園の木々の緑を、ただそのまま見ているとき、美しいと感じるとき、言葉に置き換えずにただ感じるのです。それは言ってみればメタ言語です。言葉を超越して理解されるのです。

 

 私にとって、宝月和尚様の存在は真実であって、事実ではありません。

真実とは、証明され得ない何者かの全体の一片であり、一様相であり、一筋の光明であります。

事実とは、証明され既に死滅した事柄の集合体です。ゆえに、宝月和尚様は私にとって真実なのであります。

 

 私がこの本を書いているのは、今現在幸せな人、充実した人生を送っている人のためではありません。

そのような方は、この本で心を乱されることのないように今直ちに閉じられたほうが宜しいかと存じます。

 

 溺れる者は藁をもすがると言います。私は,その一本の藁となって非力ながらも溺れ苦しむ人に手を差し伸べたいと思っています。

 

 それは、体育館の片隅でじっと独り座っている子であり、傷ついて心が血だらけになって穴から少しだけ顔をのぞかせているウサギであり、人生の重みに悩み苦しむ大人であり、あるいは、過去の死んでしまった私であり、これから生まれようとしている未来の私であり、どこかの違う世界でたたずむ私であり、どこかの違う世界で今、生きようとする私への手紙でもあります。

 

 私が今、言えるのはこれだけです。講釈が長すぎたようです。申し訳ございません。

私は後もう100年ほどは生きて学び続けたいと思っています。もし、10年後まだ生きていて、何かを学びとることが、できたならまたお会いすることができるかもしれません。今はこれで失礼いたします。さようなら。』

 

安東光輝の本は、ここで終わっていた。