翌朝、船着き場へ着くと朱い橋がありそのたもとに2匹の白い犬がいた。私たちが橋のたもとにつくと辺りは真っ暗になった。2匹の犬が私の両側に寄り添うように近づいてきた。
そして空から声が聞こえた。「この橋を渡る者は2度と元へは戻れない。そして橋を渡っている間は決して振り返ってはいけない」
私は一瞬躊躇した。しかし引き返すことはできない。私たちは無言で後ろを振り返らずに、一人ずつ2匹の犬に導かれて朱い橋を渡った。皆が渡り終えると、また明るくなりほっとしながら船に乗った。
あの声は皆にも聞こえたのだろうか?誰もが黙っていた。多分それぞれに不安なのだろう。お坊さんだけが悠然と構えているように見えた。
お坊さんが言う。「皆さんにも声が聞こえましたかな?」
ご主人が尋ねた。「あれは一体何だったのですか?」
「あれは仏の教えでは、三途の川と呼ばれ、その川を渡ると死者の国に行くと言われているのです。あの犬たちは、死者の魂を悪鬼から守ってくれているのです。」
ミトラが口をはさんだ。「私たちは死者の国へ行くのですか?」
「日本へ行くためには、一度死者の国を通らねばなりません。この川が海に尽きるところが揚州でそれまでの間が死者の国です。揚州からは大海を越えてゆくのです。それほど日本は遠い国なんです。でもあの犬たちが守ってくれて無事に橋を渡り終えましたから、もう大丈夫ですよ。」
いま私たちは、死者の国の川を船に乗ってわたっている。見たところは何の変哲もない、空は青いし白い雲もゆっくり流れている。この空を見ているとサマルカンドの青い空が美しく思い出される。もう随分遠くへ来てしまった。もう2度と戻れないのだなあ。そう思うと、悲しくはないのだがふと涙がこぼれた。
随分と色々なことがあった気がする。敦煌でのことも遠く過ぎ去った記憶だ。そして今は奴隷でもなく、ご主人様と5人の従者がいて家族とか仲間とか、友達とかそんな暖かい気持ちになれる。これは、前とは違う私だけの記憶だ。kの記憶が大きかったのだが、今では私とkは別の記憶を生きているような気がする。
私は『私』になったのだろうか?これが『小さな私』ということなのだろうか?よくわからなかったが、船の上でゆっくり揺られて、川風に吹かれていると、とても気持ちが良かった。