弁証法をこのようにして多少とも独立化し、定式化・公式化[#「公式化」に傍点]するだけそれだけ、之は話題[#「話題」に傍点]には値いして来るが、同時にそれだけの危険性を有って来る。ただこの根本特色が充分に又は全く理解されていない時に限って、このような公式化は一定の効果を持つことが出来るのであり、この理解が多少とも展開し始めた後は、公式としての弁証法[#「公式としての弁証法」に傍点]はやがて、却って一つの桎梏でしかなくなるだろう。このような場合に必要なのは却って、旧公式の解体又は新しい公式の構成でなければならない。蓋し公式はその場合々々の状態に応じて、実践的な必要に従って、形成されねばならない。――このようなものが弁証法の弁証法的把握[#「弁証法の弁証法的把握」に傍点]である。
存在が観念を決定するということ、吾々の思惟は事物が存在するままに之を把握せねばならぬということ、この至極判り切った[#「至極判り切った」に傍点]ことの内に、正に弁証法が横たわる。右翼の或る人々は云うかも知れない、それは素朴な模写説ではないかと。併し模写説の唯一の欠点は、原像と写像との一致によって真理を知るためには却って予め原像自身を知っていなければならぬ、という循環の外にはないのであるが、この循環はただ認識の実際の過程を非実践的に考えるという仮定の上で、初めて成り立つものに過ぎないことを忘れてはならぬ。実践的な模写説は哲学概論的な所謂模写説とは非常に異ったものなのである。又左翼の或る人々は云うかも知れない、弁証法が存在と概念との関係の内に横たわるならば、それは存在そのものの[#「存在そのものの」に傍点]内に在るのではないことになる、そうすれば弁証法は観念的なものとなるではないか、と。
