1

部屋の模様替え

2

夕方内科受診

3

ビビンバどんぶりを手作りする

4

おふろ溜めて長湯

5

認知行動表を自分なりに作る

6

洗濯物を畳む バスタオルを見つける


このうちなんこできるか嗤う。

書いた時点で凄いプレッシャー。

でもね12時間も遠浅で夢ばかりみていると自分が実際生きているのかさえ、判別できない状態がつづくの。

そして正気になった時、時計だけが一周してる。

労働せずとも脳は飯を要求する。

昨日は鶏皮のタレ焼鳥と他4本食べた。スーパーの。

帰り道、ほんとうの焼鳥屋さんがあったからねぎま塩2本と砂肝塩1本を買った。


母は砂肝焼鳥づくりの名人だった。包丁で固い部分、皮をそぎ落としじょうずに串刺しにして塩を振り焼いた。

父はそれがだいすきだった。わたしも。

母はすこぶる料理上手だった。手先が器用で、私ら姉妹がこどもの頃は、母お手製の姉とお揃いのワンピースやらニットソーイングの洋服をつくってもらった。

姉といつもお揃い。柄や色味がすこし違うがふたりが並ぶとお揃いとすぐに判る。母の膝に頭をのせてしてもらう耳かきは天国だった。いつも眠った。

母が結ぶ私のポニーテールは乱れが時間を経ても一切でない。着物はひとりで着て髪は逆毛だてて美しく結い上げた。

なんでも他人様より早く憶えて上手にこなす母だった。

愛に飢えたひとだった。

姉から弟まで産み落としたが埋められない孤独を父以外の男に求めた。

母の気丈は環境が創った。器用さも頭のよさも人当たりのうまさも環境が創った。

孤独を埋められないのがひとの弱さなら、浮気などということばでは済まされない壮絶な子供時代、思春期があった。

愚痴をこぼさないひとだった。


その母が羽田空港の椅子で休憩しているときに私の目を見てこう言った。

今のお母ちゃんはおまえがおらにゃあ生きていかれん。

おまえもお母ちゃんがおらにゃあ生きていかれん。

ふたりでいちにんまえ、なんで。

と。

そのことばと死ぬ前の直前、わたしを連れて逝きたいと大粒の涙をとめどなく流し続けた。医療用麻薬を24時間入れて朦朧とした母が時折覚醒し、音で遺言と生きる杖になることばをわたしに伝えた。


娘としていい母親だったとは言えない、母の20代30代があった。憎み、死さえ願った日もある。

けれど親の眼力は凄まじく的確で、形のない母が今もわたしにことばを落とす。

だから生きられる。