この雑文を書きはじめたのが1時49分。
書き終えたのが2時10分。1頁20分かぁ。

一日3頁を課してる。
でも囚人じゃないから、書ききれず先にうんこしたり歯を磨いたりお茶を沸かしたり洗濯をしたり床を拭きはじめたりしてノートに向き合えなかった日もある。
日記帳ではない。日記帳は別にある。
これのルールがある。
1.A4サイズのノートを用意する。
2.朝、起きてすぐ3頁毎日書く。
3.内容は何でもいい。
4.ぜったい誰にも見せない。

このルールに則って書く。
上のノートの写真は誰かに見せるつもりで書いたのではなく今日分の1頁を例として書いてみた。だからいつも通り。こんなのを起きてまずやってる。
ある人がオススメしていたからやってる。
私はその人の本は読んだことがないのだけど、お喋りはネットでよく聞いている。
何故私が『思い』という脳の思考を、音として正しく他人に理解を得られるように伝えられないのか長年疑問だった。
疑問は今も途中だけれど、その解決策となる一助になるのではないかとその人が喋っていた七面倒くさい、右手に一本のペンを持ち、A4サイズのノートにただひたすら毎日3頁書き綴ることやってる。
書くこと毎日3頁ないよ、って日もある。あるんだが面倒臭いが勝つ日もある。なんたって薬で生かされてる脳でもあるからまた寝てしまう場合もある。
そういう日はいいのいいので翌日。これ私のルール。
ただ、課すという罰ゲームのような苦行が案外にいいことだと後に知ることが幾つかあった。
まず、漢字が以前より検索しなくても書けるようになる。
今日でいえば【窮する】。打てばきゅうするで、窮すると給するが予測変換にでてきて選択で窮するが鎮座する。文字はつくられていく。
けれどこれは窮するを書けることとは違う。ノートに駄文にもならない文字をひたすら書いていると窮するは自分の文字にいつしか仲間入りしている。
集会で動悸の『き』ってってどうだっけ?と先生が仰って応えられたのは私だけ。動悸と打つのではなく動悸と筆圧をかけて文章の一部に入れると文章の中の動悸が動悸として活きる。これは書いてみると判る。

ところで【けんさく、する】の【さく】かけますか?
わたしは書けなかった。
けれど3頁行のおかげで自分の文字に返り咲いた。
漢字の返り咲きの恩恵と、この3頁行は【脳の排水】が目的と言う。
脳の排水、文字だけで惹かれる。

実験段階、大風呂敷はこの辺でやめておくが、おぼろげに自分自身が常々思っていること。
人間自身の進歩と人間が手を加えた事象のアンバランスが酷すぎて私はあえてアナログ時代に帰りたいと寂しく恋しく思うことがある。
私が薬をあれこれ変えられ不眠に悩まされ、過食し肥満を続けるのも私という太古の機能を遺した人間が、この社会の恩恵として受けられるあらゆるハイテクノロジーについていけてないにもかかわらず、利便をとり、人様より少ないにしても汁をなめて生活してるひずみが関係してないとは思えない。
アナログ回帰がいびつをただしてくれる、それを脳の排水と言ったのではないかと、試してる最中。
そして文字を打つのではなく文章を書くということ、1センテンスを長く書けるようになることは形容がふえることでもある。思考では絶え間なく景色を見たり映画を観たり、講話を聞いたり、電車に乗れば人を見てたりして何万の言葉が生まれ消える。
思考が何億枚の言葉という想いという写真を撮りつづけている。それを朝一番に起きて排水する。太古のままの肉体に在る握る、筆圧を被るペンをもち書き綴る。3頁なら私は早くても1時間かかるわけだ。
効率の悪さと私の脳に無駄に蓄積された何億枚の写真が排出される。
私は今寿命のプレゼント部分を生きていると思っているので、こういう非効率なことが生活の中でできる、金のかからない知的なチャレンジと思ってやってる。

そしていちばんのこの効果は、想いを音にして人に伝えることの役に立っていると感じる。入れたら出す。これで言葉が不必要に脳の中で踊らない。
まだまだだけれど、夏休みの宿題じゃないからたのしい。

この前仲間のひとりにハグされた。もちろん相手は女性。
彼女のこころのやさしさまで感じた。
人に笑顔で好意によるハグをされるって幸せがフル回転する。
人間が太古を求めている。わたしは求めている。

うんこしてシャワーして寝る。

年が明けるまでにマイペットで床ぶき掃除する。