親友からメールが来た。

12月初旬に会うと言う。

どちらが気を変えるか今は分からないが私は会う。相手が断らない限り。


最後に会ったのはいつだったろうか。

最後の日も『またすぐ会おうね。会いたい。』と甘えられた。

『直ぐ・・・』は内心躊躇したが『うん』とうなづき、そして私も会いたいと思った。

そして、そして何年か経った。

何年のあいだ、どちらかが死んでいたかもしれない。

それは認めていながら月日は過ぎたが、逢わないあいだにこころが壊れた。

ふたりのりょうのてで持っていた透明な器がぱりんと壊れてしまった。その壊れたものを片すこともできず年月が過ぎた。


会う意味ってあるのかと思う。メールがきても返事に困る相手となった親友に話せる話は少ない。

でも、会ってみようと思う。


今日は集会。

昨日ひさしぶりに掃除をして綺麗になった気分の部屋は清々しい。

集会も寒いし強張るし行きたくないがリターンを期待して行ってこようと思う。


元同居人とも12月に食事をする約束をしたが、彼女は会えば笑いの多い場が予想できるので心配はないが、私の胃が食べ放題を今あまり喜ばない。

株主優待券でご馳走になる身で図々しいが気乗りはさほどせずは、ほんとのこころ。

わたしは多分もう人嫌いにちかい。

100人にさよならされることより、3人との決別で他人がどーでもよくなった。

片せないワレモノとおしゃべりな御機嫌鳥は真剣勝負ができない。

片せないワレモノにはふて腐れる本性で会う気だが、御機嫌鳥は瞬間をたのしもう。

それでいい、や。


白髪がでてるからせめて月末に染めて会おう。


ともだち、とは深入りせず距離をとってつきあえるひと。

ならば、ともだちなんかいらねぇー。

まじでいらねぇ。

自分自身の受け皿の脆弱と寿命と切り刻まれたこころが癒えないから二度とともだちなんか要らない。


侵入されるな、境界線を意識して、見えないだれにも壊されない厚い透明な壁がわたしをすっぽり包んで、他者からそれは見えず護られている。


ならば、なんと孤独な人生だろう。

ならば、犠牲とは悪なのか。

ならば、生まれてきた意味を知ることはないと思う。