秋野暢子の『3日間ファスティング』というタイトルが意図せず目に入った。
抗がん剤治療前らしい。文章は一切読んでいない。
この手の病気のブログ、YouTubeは一切見ない。オススメに頼みもしないのににでてきたら99%即閉じる。
母の癌の発覚から死までの闘病の月日の付き添い人であった日々を思い出して、吐き気がするし複雑な気持ちを消せない。
秋野暢子にも樹木希林にもなかにし礼にも恨みはない。むろんすべての闘病ブログにも。
ただ、じぶんが耐えられない。
ファスティングかぁ。
母はヘビースモーカーだった。
『おかあちゃん肺癌になってぶち苦しんで死ぬようになるけぇね!』と怒鳴り散らかすと、わらって私に向かって深く吸い込んで見せた。
『おかあちゃんたばこやめるんならしんだほうがまし』が、母の決まり文句だった。
首のリンパ節の腫れが始まりでそこから私と母の三本足での癌ライフがスタートした。
癌をどうとらえようが向き合おうが発信しようが助かるひとは何度でも助かり、そうでないひとが一方いる。
そうでないひとが不幸かというと看取りの娘の経験からいえば一概にそうと言えないエゴがある。
100%すべての人間は死に向き合うときがくる。
アラブの石油王だって皇族だって向き合う。
母は肺癌で原発巣不明のリンパ節転移という、それ自体不幸であったが、娘のわたしを【価値あるもの】というたかみへ連れていってくれた。
母が抗がん剤をはじめてどんなときも傍に居た。
携帯酸素無しでは生活できなくなってからも、御茶ノ水駅で下車して階段は私が携帯酸素を抱えて母は手すりを掴んでゆっくりゆっくり昇った。
入院中、母はカルメ焼きを食べたいと私に難題を所望した。
吉祥寺のドンキホーテで沢山買って病室に入る。
母は概ね前向きな姿を私に見せたが時々病院食のまずさが不満でわたしにに食べさせてくれた。
姉の嫁ぎ先で緩和に以降してからもいつも母は母のままで変わらず、笑いを周囲にくれた。訪問看護の看護師はかつてこんな明るい癌患者をみたことがないと感嘆した。
母の苦しみに触れられなかった。誰も触れることはできない。
その道は死までの冒険道で、付添人が娘の姉、わたし、義兄だった。あんなに母と濃密に暮らすことが出来たのは末期癌がもたらしてくれた恵み。
母は苦しいとも痛いともいわず、ただ日に日に麻薬の回数の間隔がせばまりそれを願った。最後に欲しがったコーヒードロリッチを完食できなくなって数日後、天界へ旅立った。
意識があるときはしあわせしあわせと言い残して。
美しい場面はたいていせつない。
朝、『○○、おはよう』と親友からメールが来ていた。
私は怒りを抑えてあえておはようと返した。
『わたし、○○(私の名前)のことが好きなの。』と。
私は『○○駅(彼女の最寄り駅)までいくから、会える?』
と書いた。
想像通りいまは、、、、と断られた。
やっぱり。
これでいい。
舐めた甘えは昔のようにはさせない。
私も親友も甘えている。
抗がん剤を体内に入れる前の人間には絶対ない、ナメた駄々こねかまっておばちゃん。
そんな都合のいい『すき』は私にはチクりとも響かず、薄っぺらペラい。
そして醜い。
ファスティング一日目終了。