恋は人間の感受性を高め、優しい気持ちを揺さぶってくれる一番人間らしい感情。






幸福とは、心のあり方だと思う。
「今自分は幸福だ」 と思えることが幸福なのだ。
これが僕の個人的な「幸福論」の大前提だ。
満ち足りた生活を送っていれば幸福なのだろう。
では何に満ち足りたら幸福かな?
お金がたくさんあれば幸福かな?
回りの皆にちやほやされて、自分のわがままが通れば幸福かな?
国家が、ゆりかごから墓場まで面倒見てくれたら幸福かな?いったい誰が幸福にしてくれるのだろう?国家が?社会が?家族が?恋人?お金?仕事が?名誉が?地位が?では、いったいいつ幸福になれるのだろう?
明日?来年?10年後?死ぬ時?
今すぐに、幸福になることは出来ないのかな?
もしも国家が幸福をもたらしてくれるのなら、その国に住む国民全員が幸福でなければならないことになる。
もしも社会が幸福をもたらしてくれるのなら、誰も僕の悪口など言わないはずだ。しかしよく耳にするのは、ありもしない僕の噂や、やっかみ、嫉妬。
もしも社会が幸福をもたらしてくれるのなら、社会は僕に気を使ってくれてもいいはずだ。
もしも恋人が幸福をもたらしてくれるのなら、たしかに一緒にいる時は幸福であるが、いつも一緒にいられるわけがない。
もしもお金が幸福をもたらしてくれるのなら、趣味にお金を注ぎ込むのを止めて、もっと仕事をして稼がなくてはいけない。
もしも仕事や名誉や地位が幸福をもたらしてくれるのなら、面倒くさがりでズボラな僕には幸福などあり得ないことになる。
今日一生懸命生きたから明日は今日よりも少しは幸福になれるのかな?
そうやって、だんだん、毎日少しづつ幸福を増やしていけば、10年後には今よりも、もっともっと幸福になっているはずだけど、10年前と今を比較してみると、そんなに変わってないみたいだ。
でも死ぬ時は幸福な人生だったと思いながら死にたいな。
どんなに幸福に見える国や社会に住んでいたって、幸福を実感する技術を身につけていないのでは幸福を実感することは出来ないのではないかな。
人は生まれついたときから、人を愛する技術を身につけていないように、人は生まれついたときから、人生を楽しむ技術を身につけていないように、幸福もまた、人の心理的成熟の度合いに関係なく、誰もが簡単に身につけれるような感情ではないのではないのかな。





「常識」と自分の価値観を混同すると不幸になる。
自分にとっての真実はただ一つ!
僕にとって、人生は腹立たしく、虚しく、やるせなく、不愉快なもの。
「変人」扱いされるのが怖くて「常識」と「真実」を混同すると不幸になる。
子供は裏と表の区別がつかないので、表で「タブー」とされていることを、心の中で思っただけでもいけないことなのだと思い込んで、心の中で葛藤が起こりノイローゼになってしまう。
裏と表を使い分けることは「ズルイ」という観念から解放されれば楽に生きられるのに、割り切れない。
よく「神様がみまもっててくれるから」とか言うが、神様は辛い目に合わせるだけで、その試練に耐えても心の幸福を与えてくれるわけではない。
世間は人間社会の外に「神」がいると思わせることで「社会の掟」を守らせるように「洗脳」しようとしているのだ。
神も含めて、他人に善悪の判断をしてもらえば楽だが、本当の解決にならない。誰も味方してくれる人がいなくても、自分で決めるしかない。
不相応な幸福を欲しい欲望をこらえて自分に似合う幸福で我慢する。
支配されても恋人を作った。
バカにされても「仲間ごっこ」して友達を作った(一人ぼっちは自由だけどさびしい)。
欲張りな性質の為に出来ない仕事を引き受けてバカをみた。 それらの代償として僕は「本物の幸福」(僕に似合う、他人から見たら細やかな幸福)を手に入れたと言える。