阪神大震災から16年。
この記事は昨日書くべきだったのかも知れないが、恥ずかしながら、昨晩のニュースを見るまではすっかり忘れていた。
当時私は喫茶店でアルバイトをしており、比較的自由な立場にあった。
テレビで震災後の光景を見てショックを受けていた私は、救援物資を運搬するトラックは手配したが運転手(経験者)がいないという話しを持ち掛けられ、快く承諾し、職場の上司に訳を話し、休みを頂いた。
トラックの運転の経験と言っても、2tのダンプカーを運転していた程度で、長距離を乗りこなしていた訳ではなかったので少々不安はあったが、何らかの形で困っている方々のお役に立ちたいという気持ちが背中を押した。
二日後だっただろうか。
私は荷造りをしている場所へ向かい、少々肝を冷やした。
近所で集めたちょっとした荷物を、普通の2t車に積んでシートをかけてロープで締めて持って行く程度だろうと思っていたのだが、そこには2tのアルミのロング(箱型で長いトラック)が置いてあり、集まった十数名の方々がせっせと薬や食糧品を始め、毛布や衣類などの大きな荷物を積み込んでいたのだ。
運転手がいないからという事で依頼されている。
断る訳にはいかなかった。
私も作業に加わり、荷物を積み終えて、十数名の方々に手を振って見送られ、いざ出発。
直後、その方達が見ている前で、サイドミラーを並木の枝にぶつけて割ってしまった。
先が思いやられる(笑)
オートバックスでミラーを替えて長い道のりを走り、現場へ無事たどり着いた頃にはへとへとになっていた。
物資を配る場所は10階建てくらいのビルの一階で、持って来た物を配りながら恐怖を覚えた。
集まって来る人々の眼光は鋭く、物や食糧に飢えているのが一目で伝わってくるのだ。
ここは本当に日本なのかと思ったのを覚えている。
そして、物資を配り終えた後ビルの外階段を上り(エレベーターが使えないので)、上から街を見下ろして再び驚かされた。
平家の屋根はどれも、真ん中には瓦が無かったのだ。
その景色は、阪神大震災がまさに直下型の激しい地震であった事をそのまま物語っていた。
帰りのサービスエリアでテレビを見ると、また被害者が増えていた。
私は、ほんの一部を垣間見たに過ぎなかったが、本当に凄まじい災害だった。
あそこからはい上がり、街を復興させた被災者の方々は並々ならぬ努力をされたことだろう。
以上。
この記事は昨日書くべきだったのかも知れないが、恥ずかしながら、昨晩のニュースを見るまではすっかり忘れていた。
当時私は喫茶店でアルバイトをしており、比較的自由な立場にあった。
テレビで震災後の光景を見てショックを受けていた私は、救援物資を運搬するトラックは手配したが運転手(経験者)がいないという話しを持ち掛けられ、快く承諾し、職場の上司に訳を話し、休みを頂いた。
トラックの運転の経験と言っても、2tのダンプカーを運転していた程度で、長距離を乗りこなしていた訳ではなかったので少々不安はあったが、何らかの形で困っている方々のお役に立ちたいという気持ちが背中を押した。
二日後だっただろうか。
私は荷造りをしている場所へ向かい、少々肝を冷やした。
近所で集めたちょっとした荷物を、普通の2t車に積んでシートをかけてロープで締めて持って行く程度だろうと思っていたのだが、そこには2tのアルミのロング(箱型で長いトラック)が置いてあり、集まった十数名の方々がせっせと薬や食糧品を始め、毛布や衣類などの大きな荷物を積み込んでいたのだ。
運転手がいないからという事で依頼されている。
断る訳にはいかなかった。
私も作業に加わり、荷物を積み終えて、十数名の方々に手を振って見送られ、いざ出発。
直後、その方達が見ている前で、サイドミラーを並木の枝にぶつけて割ってしまった。
先が思いやられる(笑)
オートバックスでミラーを替えて長い道のりを走り、現場へ無事たどり着いた頃にはへとへとになっていた。
物資を配る場所は10階建てくらいのビルの一階で、持って来た物を配りながら恐怖を覚えた。
集まって来る人々の眼光は鋭く、物や食糧に飢えているのが一目で伝わってくるのだ。
ここは本当に日本なのかと思ったのを覚えている。
そして、物資を配り終えた後ビルの外階段を上り(エレベーターが使えないので)、上から街を見下ろして再び驚かされた。
平家の屋根はどれも、真ん中には瓦が無かったのだ。
その景色は、阪神大震災がまさに直下型の激しい地震であった事をそのまま物語っていた。
帰りのサービスエリアでテレビを見ると、また被害者が増えていた。
私は、ほんの一部を垣間見たに過ぎなかったが、本当に凄まじい災害だった。
あそこからはい上がり、街を復興させた被災者の方々は並々ならぬ努力をされたことだろう。
以上。