いや、今更かよw


って思われそうだけど、先週の金曜日に標記話題作を観てきた。

人気作品はどうせロングラン上映してくれるので、わざと公開から時間たってから平日の晩にゆっくり観に行くのがオツなんだよ指差し



以下、感想




猗窩座が鬼になったのって、

猗窩座のせいではなくないか???あんぐり


あんな状況に見舞われて、鬼にならない選択できる人間いるのか?いないだろ?


一番悪いのは、

狛治をあんな状況に追いやった、

貧困層に厳し過ぎる社会システム自体と

陰険に群れることしかできない弱い人間だろ‼️


それをそのままにして、

猗窩座に全ての罪を被せて、猗窩座をやっつけました、めでたしめでたしでは、対症療法にしかならない、根治はできない

とは思った。


でも、炭治郎の葬り方は、猗窩座の心の中の本当の希望に報いる形だったので、その矛盾に視聴者の注意が向かずに済んだ


ってことかな?と思った。



弱い人間が群れた時の

被害者ムーブしながらの無意識の加害行為が、

実は鬼よりも厄介という事実は、

鬼殺隊は敢えて観ないようにしないと仕事できないところだろうからな…


だって、「弱者を守るのが正義」

って思ってるからこそ、

親兄弟を殺された憎しみの発散という私怨を

社会全体のためという大義名分でカモフラできてるわけだしな。


とか言ったら、

鬼滅ファンにめちゃ怒られそうだけど泣き笑い


鬼を生み出すのは、たくさんの弱い人間たちからの暴力

なのに、鬼になったとたん、鬼個人にその罪が被せられてしまう

その不条理…


そこに切り込んでしまうと、少年漫画の

弱きを助け強きを挫く

それが正義

という前提話法が崩れてしまう。


でも現代という時代は、

そのような盲目の前提条件の盲点を、視聴者がやすやす突いてきてしまう


今の時代そのものが

昭和の「お約束」文化

では追いつけない多元的なものになってしまってるから。


そんな中でヒット作を生み出すためには、

主人公側が人間の領域を越えないといけなくなってきた。


従来の少年漫画お約束の、

暴力強度のインフレ合戦によってではなく、

暴力が必要という概念の次元ごと超えるという

世界観の塗り替えによって…







違う作品の話絡めてすまないけど、

呪術廻戦の夏油はそこに気づいてしまったから苦しんだのかなって思った。


弱者自身に自分の弱さと向き合わさせないまま、

弱者を救済しつづけることは、

(短期的には善に見えても)

その背後でどうしようもない悪を肥え太らせてしまう諸刃の剣だ


って気づいてしまった、

もともと弱者救済=社会全体のためになる

という思考が強い個体だったからこそ、

それが実は対症療法にすぎないと知った時のギャップが酷く、あそこまで極端になったのかな?

と思う。

で、多分そのことも、夏油自身でも自覚していて、親友に幕引きしてもらうために最期ああしたのかな?と思った。




最近の少年漫画は、そんなふうに、社会全体的にな視点に立って、当然のように哲学的思考を前提にしている感がある…気がしてる。


面白い時代になってるなよだれ