先日、全国有志超宗派の会の豊島会長とともに、イラン体制派で総合格闘家のテヘラン・カトウさんと会って3人で話をした。一緒にビールを飲みかわしながら4時間ほど話をした。
体制派である軍による弾圧といった話や女性の人権問題などについてたずねてみたが、王族の復帰を願っている王党派の方から聞いた話とだいぶ違う。
アメリカ政府が公表している人身売買報告書で記述されていることから考えても、トランプがイラン攻撃に踏み切ったことから考えても、イランにおける女性の地位についてイラン女性が語った本の内容から考えても、イランに人権問題が全くないとも思えない。
それでも、体制派と王党派の、互いの見解が全く相容れない。その深い分断状況を見ていて、この対立構造自体がつくられているんじゃないかという疑念が強くなってきた。
イラン人どうしを対立させるためにイランの人権弾圧についてはかなり誇張されているかもしれない。
そう思えてきた。
イランについて前回のブログで語った内容は、いったん白紙に戻させてほしい。
時間のある時に、イランの状況について調べてみる。
さて、本題に入ろう。
テーマは「今を生きる」ということ。
「日々是好日(にちにちこれこうじつ)」という本がある。
著者の森下典子が茶道を学び始めた頃から熟練者になるまでをストーリーにして書かれたエッセイだ。
なお、「日々是好日」という言葉は、中国の禅僧の言葉で、毎日が良い日だという意味だそうだ。茶室に掛けられた掛け軸の言葉だが、仏教と深い関りのある言葉でもある。
本では、茶道を教わる著者が、お茶を点てている時に茶道の先生に指導を受ける場面がたびたび出てくる。
「今に心を集中させなさい。」
「一つ一つのことにちゃんと心を入れるのよ」
また、こんなふうに声をかけられることもあった。
20代でフリーの記者だった著者が、まわりの人間が会社に就職して安定した地位を確保し、また結婚して家庭に入っていくのを眺める中で、自分だけ取り残されたようで焦っている時期がある。
そんな思いで頭がいっぱいで、その焦りがお茶を点てている時にしぐさに現れると、先生は「ちゃんとここにいなさい」という言葉をかける。
その部分を引用してみよう。
「あなた、今どこか、よそへ行っちゃってるでしょ」
「?」
私には、先生の言ってる意味がわからない。
「若いってことは、だめねえ。全然落ち着かない」
先生は独り言のようにつぶやいた。
「ちゃんと、ここにいなさい」
「・・・・?」
「お釜の前に座ったら、ちゃんと、お釜の前にいるのよ」
曹洞宗の僧侶ネルケ無方の師匠は、弟子の前で話をしている時、突然「わあ」と大きい声を出すことがあったそうだ。
出し抜けに大きな声を出されると、弟子はハッとして何事かと思って我に返る。
まさか、師匠が話している時に弟子が全然違うことを考えたり、何か空想でもしているわけでもないだろうが、師匠の言葉を追っている時でさえ、きっと今に意識を集中することは出来ていないからなのだろう。
今に意識を集中して、今を生きる。
これは仏教ではたびたび耳にする言葉で、ベトナムの禅僧ティク・ナット・ハンは、これをマインドフルネスと言った。今この一瞬に、神や仏を見出し、安息の地を見出すのだとティク・ナット・ハンは言う。
ドイツから日本に来て出家したネルケ無方は、「今を生きる」ということを講演会で以下のように説明している。今日を生きると説明しているが、言わんとすることは同じだ。
なお、話を全部聞きたい方は、一番下にこの講演会の動画を添付するのでそこから見てください。
「今を生きる」ということを実践する修行法がある。
それをヴィッパサナー瞑想という。
僕はタイのお寺で、タイの僧侶からそのやり方を学んだ。
日本の座禅と同じ様に、座ってする瞑想もあるが、歩いてする瞑想もある。
座っている時は、ゆっくり息を吐いて、ゆっくり息を吸いながら、息に意識を向け、呼吸をする時のお腹のふくらみにも意識を向ける。
「自分は今呼吸をしている。今息を吐いた。今息を吸った。」それを確実に意識して繰り返す。
歩く時の瞑想は、ゆっくり歩きながら、一歩一歩に集中する。
「今足が上がった。今足を前に踏み出した。今地に足がついた」
実に地味な作業だが、集中してこれをくり返していくと、すっと心が落ち着いてきて、今目の前にあるものが確かな存在として認識できるようになっていく。
スリランカの僧侶、スマナサーラ長老は、ヴィッパサナー瞑想を通じて、すべてが関わりあって存在しているという縁起の教えや、今この瞬間にすべて移り変わっていくという諸行無常の教えを実感できると説いているようだ。これは瞑想を極めた先に見えてくるものかもしれない。
今を生きるという教え、これは仏教だけが説いているというわけでもないようだ。
ロシアの文豪トルストイの小説「三つの質問」にこういう一節がある。
本当に大切なのはただ一つ、今この瞬間です。
なぜなら、私たちが力を持つのは今だけだからです。
最も必要な人は、今あなたの前にいる人です。
なぜなら、その人以外とあなたが関わることがあるかどうかなど、誰にも分からないから。
そして最も重要な仕事は、その人のために善をなすことです。
なぜなら、人はそのために生(せい)を受けたのですから」
*この小説のストーリーを全部知りたい方は、この動画でこの小説の朗読が聞けます。
とても短い小説です。
最後に、「日々是好日」の著書である森下典子が、長年茶道を続ける中で、どのように感覚が研ぎ澄まされてきたかがわかる箇所をこの本から引用しよう。
茶道では、常に季節を意識して、床の間の花、掛け軸、茶碗を季節に合わせたものにする。そうした自然の流れに身を置くことと同時に、今この瞬間に心を入れてお茶を点てるということで、たどり着いた境地がここでは描かれている。
すると、ある日突然、雨が生ぬるく匂い始めた。「あ、夕立が来る」と、思った。 庭木を叩く雨粒が、今までとはちがう音に聞こえた。その直後、あたりにムウッと土の匂いがたちこめた。
それまでは、雨は「空から落ちてくる水」でしかなく、匂いなどなかった。土の匂いもしなかった。私は、ガラス瓶の中から外を眺めているようなものだった。そのガラスの覆いが取れて、季節が「匂い」や「音」という五感にうったえ始めた。自分は、生まれた水辺の匂いを嗅ぎ分ける一匹のカエルのような季節の生きものなのだということを思い出した。
毎年、四月の上旬にはちゃんと桜が満開になり、六月半ばころから約束どおり雨が降り出す。そんな当たり前のことに、三十歳近くなって気づき愕然とした。
前は、季節には、「暑い季節」と「寒い季節」の二種類しかなかった。それがどんどん細かくなっていった。春は、最初にぼけが咲き、梅、桃、それから桜が咲いた。葉桜になったころ、藤の房が香り、満開のつつじが終わると、空気がむっとし始め、梅雨のはしりの雨が降る。梅の実がふくらんで、水辺で菖蒲が咲き、紫陽花が咲いて、くちなしが甘く匂う。紫陽花が終わると、梅雨も上がって、「さくらんぼ」や「桃の実」が出回る。季節は折り重なるようにやってきて、空白というものがなかった。
「春夏秋冬」の四季は、古い暦では、二十四に分かれている。けれど、私にとってみれば実際は、お茶に通う毎週毎回がちがう季節だった。
どしゃぶりの日だった。雨の音にひたすら聴き入っていると、突然、部屋が消えたような気がした。私はどしゃぶりの中にいた。雨を聴くうちに、やがて私が雨そのものになって、先生の家の庭木に降っていた。
(「生きてる」って、こういうことだったのか!)
ザワザワッと鳥肌が立った。
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