感情は面倒だ。特段インテリぶるとか、超然とした振りをするであるとか、そんな酔狂な真似は私に似合わない。私はただ、朴念仁として、つまらぬ欠落を抱えた人間として、感情への愚かな忌避を表明したいのである。

論理と感情を二項対立的に捉える見方は魅力的に思える。それは、楽だからである。論理はあくまでシステムで、現実を歯車の集合で捉えられたならどれほど楽か。しかし、そう怠惰になるわけにもいかない。自然科学的な現実観はどうにも無理がある。実証主義の時代は終わった。人間の群れは社会を存立させ、社会を基盤とする(socially constructed)概念には枚挙に暇がない。その文脈において、感情は重要な要素だ。きっとそうであるに違いない。誰しもが常に持つ感情、それは共通して群れを特徴づけるもののはずだ。

だが、私にとってそれは感覚的理解に尽きる。どうしても「引っかかる」部分があるのだ。感情が各個人において自然発生的である※として、相反して感情は規範(norm)の一部でもあることだ。そこがどうもしっくりこない。

発想のきっかけは、パートナーの発言である。かの言うところが私には理解できなかった。どうやら、かつて好意を表明された相手に再び会ってきたという。そこで「あなたのことをどうしても諦められない」と言われたらしい。

それに対してかの私に言うには「君(私である)のことを一途に想うからこそ、自分はあいつの好意を受け止め、そして拒否することができるのだ」と言う。それら全てを、私に伝えてきたのである。

私はその場では「それをあなたにわざわざ言うあたり、その者は特段ずるいと思われる」と返答した。だが、かの返答は繰り返されるばかりだった。「自分は受け止めるしかない」と。

なんと面倒なことか。私はそうとしか思えなかった。その忌避はパートナーに向けられたわけではなく、<規範からの逸脱(deviance)を正当化しうる感情>という「特別ルール」に対して、である。

さて、エピソードを規範に則って整理しよう。パートナーは、かを想い続けた相手と再会した。この点が逸脱(a)である。程度はさておき、基本的に、一方にパートナーがいる場合、異性が二人きりで会うべきではないだろう。私の"感情"は特に考慮に入れていないが、私に刷り込まれた規範意識に基づけば、大きくはないにせよ逸脱方向にベクトルは向いている。大したことはないが、良いものではない。そんなところに落ち着くだろうか。

次。「未だあなたを想い続けてしまう」と伝えたこと。この点が逸脱(b)である。これは、いわゆる「アウト」というやつだろう。パートナーがいると分かっている相手(※2)にそれを伝えるのは、不毛である。叶ったとしても、それは褒められたものではない。誰かはそれを「奪った」と糾弾するやもしれない。繰り返すようだが、私の感情はさておき、規範がそれを決めるのである。これも、大きさ(impact)に関しては見解が分かれるところだろうが、逸脱ベクトルを志向する点に関しては概ね賛同を得られるのではないか。

しかし、これら逸脱(a)(b)を正当化する要素が「感情」である。かの言葉にあるのは「それほど大切に想ってしまうのなら」受け止める、ということだ。すなわち、相手の真剣さ、素直さをポジティブに評価した結果、これら逸脱は「看過される」というのである。

悲しいかな、私はそれに納得がいってしまう。気持ちとして「引っかかる」が、納得がいくのである。だからこそ、それを消極的に受容した上で「うんざりだ」と思うのだ。そんなイレギュラーは、必殺技は、特別ルールは、聞いてない。

恐らく、その特別ルール「感情」に忌避を示したくなるのは、私が特に臆病で保身に一生懸命な、卑怯な人間だからである。保身にヒビを入れぬため、私はことさら規範を注視してきた。

「それを、そんな簡単に破れるなんて」、ということである。

情けないことに、私はかつて似た立場にあった。と言っても、「伝える側」である。私は、涙を飲んだ。いや、涙だけではない、全てを飲み込んだ。耐えたのである。臆病だから、押し込むことを、自ら選んだのである。

そして未だ、その感情を原動力に他人を糾弾することなどできないから、ほんの少しの論理を纏った愚痴を連ねているのである。

私には、感情を器用に乗りこなすことができない。だからこそ羨望や恨みを込めて、私は弱々しく、ここに表明する。

感情への忌避を。

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※1ソーシャライゼーションを通して感情基盤が画定されていることは議論を待たないが、当文脈においては基盤が醸成されたのちに感情が「発生する」段階に着目する。

※2 説明不足だったが、相手はその事実(パートナーが既にいること)を承知の上である。補足までに。