『いい人だよね』とか

『優しいね』などと

言われたことはありますか?

 

 

 

そう言われるとなんだか嬉しくなりますね。

 

褒めてもらえば嬉しくもなりますし

相手の役に立てて相手が喜んでくれたら

『やってよかったな』

という気持ちにもなりますよね。

 

 

 

 

いいと思います。

 

 

 

 

 

 

僕も昔からよく言われてました。

 

もちろん嬉しかったです。

 

 

 

でも…

 

 

 

いつしか無理をするようになり

「いい人」でいることが苦しくなりました。

 

 

 

 

 

人は

社会の中である一定の役割を演じたりします。

これを「ペルソナ」と言います。

 

 

 

どういうことかというと

 

例えば

 

「お医者さんならお医者さんらしく」とか

「社長なら社長らしく」などと

その人が持っている役割に対する

「社会的イメージ」があって

そのイメージに沿うように

自分を演じてしまうことがある

 

ということなんですね。

 

 

 

これは今日のテーマでもある

「いい人」とか「優しい」にも当てはまり

周りからの期待やイメージにあわせて

自分をイメージ通りになるように演じてしまう

ということなんです。

 

 

 

しかも

「いい人」とか「優しい」というのは

とても良いイメージのものなので

積極的に演じてしまう傾向にあります。

 

 

 

ただ

僕のように苦しくなってしまったり

しんどくなることもあります。

 

それは自分を犠牲にしている時です。

 

 

 

何をお願いされたときに

『やりたくないな』と感じたり

 

悩みを相談されたときに

『めんどくさいな』と思ったとしても

断りきれずに受けてしまいませんか?

 

 

 

それは『いい人とか優しい人と思われたい』

『断ればがっかりされるかも…』

という周りからの期待を裏切る恐怖から

嫌々ながらも引き受けてしまうわけです。

 

 

 

「いい人」や「優しい人」でいることは

決して悪いことではなく

とてもいいことではあるのですが

「いい人」「優しい人」と決めるのは

自分ではなく他の誰かですよね?

 

 

それはある人にとってはいい人であっても

別の人からしたらいい人ではなくなる

ということも起こります。

 

それに

その人にとっていい人と言うのは

その人の望みを叶えてくれた人のことであり

その人の都合や期待に応えた人のことです。

 

ということは

その人の望みや期待に応えられなかったら

いい人の称号は剥奪されてしまう。

 

 

なんとも理不尽なことじゃありませんか!

 

 

そうすると

いい人でいるために

相手の望むものを与えないといえない。

 

自分を犠牲にしてまでも…

 

ということになりますね。

 

 

 

 

 

なので

いい人は卒業しましょう。

 

嫌なことには嫌と言って

できないことにはできないと言いましょう。

 

 

 

 

 

これはなにも嫌な人になれってことではなくて

自分を犠牲にすることをやめようって話。

 

 

 

相手のことを思って力になることは

自分が『したい』と望むなら

進んでやってあげてください。

 

 

ただ決してわがままになってもいい

というわけではありませんよ。

 

 

 

相手の立場や状況を考えて

手助けしてあげるというときも

時には必要なこともあります。

 

 

 

その時に

自分が納得し進んでやれるかどうか

ということだと思います。

 

 

 

 

 

 

あとは

「スマートな断り方」

日頃から考えておくと役に立ちますね。

 

 

 

 

誰かにとってのいい人でなく

自分自身にとって

「いい人」や「優しい人」でいられることが

とっても大事だなと思います。

 

 

 

 

鳥居剛志

 

 

 

 

あなたは「いい人」をやめまられますか?

 

意外と難しいんですよね。

 

無理にやめる必要もないのですが

もし『苦しいなぁ』と思うのであれば

1度ご相談ください。

 

無理なくやめられるように

一緒にトライしてみましょう。

 

ご質問もお待ちしてます。