見てしまう人びと 幻覚の脳科学/O・サックス/大田直子 | 読んだり観たり聴いたりしたもの

見てしまう人びと 幻覚の脳科学/O・サックス/大田直子

メディカルエッセイの良書。本書では脳機能の驚異の一端を詳らかにすべく、「幻覚」をテーマに取り上げる。

 

人は目で物を観るのでは無く、脳で見る。そして幻覚というのは脳の作用として現れる。つまり幻覚は、精神病の症状としてのみでは無く、どんな人にも脳の恒常的な、あるいは一時的な機能障害として現れうるし、また、目立たないだけで正常な脳のルーティンとしてもそれは常に存在しているのだ。そして、視覚だけでは無く、あらゆる感覚器官が同様の構造を持つ。

正常な脳の正常な精神状態の人が幻覚を見たとしよう。彼はそれが幻覚だと理解している。それは、目の前の異常が、よく見れば現実と区別が付くような不確かさやディティールの欠如をもっているからでは無い。どんなに目をこらしても現実としか見えないが、合理的に考えて「それは存在し得ない」と知識で知っているから、辛うじてそれが幻覚だと分かるのである。

私達が感じている現実は、感覚の入力を元に脳が作る世界だ。同じように脳が作り出す幻覚を、同じ脳の表現空間の中で区別することなぞはできないのだ。

よく知られている五感の他、人にはもっと多くの感覚がある。それは当たり前すぎて、例えば哲学の前提となっているような感覚だ。つまり、自分が自分である感覚。自分が存在してる感覚。時間が流れている感覚。物体の運動を感じる感覚。よく知った人に親しみを感じる感覚。等々無数にある。

こうしたプリミティブな感覚に対する「幻覚」は、容易に超常現象体験や宗教体験をもたらすだろう。そうした体験は現実の経験と区別することはできない。世界各地の古代宗教に共通の感覚的モチーフが現れるのは偶然では無いのだ。

 

我々は、こうした自身の脳の機能を知らなくてはならない。その目でしかと観た物は現実では無いこともあるのだ。感じた感覚や気持ちも同様だ。神を見て神を感じたとしても、神はいない。

 

脳機能とその幻覚作用の研究が進めば、諸宗教の秘蹟は暴かれていくだろう。

さすれば人類が旧態的な宗教を撲滅できる日もやがて訪れると期待できる。

 

私は音楽を聴くことを卑下も否定もする者では無い。大気の疎密波が織りなすパターンがもたらす脳への刺激は、科学的には明白な脳の反応だと分析できたとしても、聴いている本人には、感情の起伏や陶酔、そして人生の意味さえもたらすだろう。確かに音楽は素晴らしい。しかし、だからといって、全ての人々にとってその音楽が重要であり、すべての人々にとって音楽こそが人生の目的に違いない、とするのは短絡だ。好きな音楽の素晴らしさを語り熱心に勧めるのは本人の自由だろう。だが、私には私の音楽の好みがあるし、音楽なんて大嫌いだ、とうい人がいても良いはずだ。

お薦めの際には分を弁えるのがマナーであろう。それがたとえ自分の子供であってもだ。ましてや、気に入らない音楽を好む集団だからといって迫害するのは間違いだし、公共の場で私の嫌いな音楽を掛けた(もしくは好きな音楽を掛けなかった)といって怒鳴り込むのも間違いだ。たとえどんなにその音楽が心地よかったとしても、あくまで一趣味に過ぎない特定の音楽を振興する法人の活動を、行政として特別扱いしたり、課税対象から外すのは問題があるだろう。

 

宗教も同様だ。宗教は法人格を一旦全廃した上で、音楽の同好会などと同列に、好きな人が集まって楽しむ特定の趣味団体として活動すれば良いだろうと思う。

 

O・サックス/大田直子
見てしまう人びと 幻覚の脳科学