PS3/風ノ旅ビト/SCE
と言うわけで、昨日無事トロフィーコンプ完了。実働で1週間程か。
毎日、お風呂上がりのスキマ時間でコツコツと30分位ずつプレイして集めた。
先のエントリでも書いたように、このゲームでは緩いバディ制を取っているので、トロコンに際しては、そのネットプレイがらみのトロフィーがネックになると思われる。取得目指すならフリープレイ配信開始で人が集まっている今の内に取ってしまった方が良いかと思われる。
そうでなくても、「同行:仲間と共に山頂に着く」のトロフィーは本作の魅力の大きな部分を形成していると思われるので、是非に取得したいところだ。また、非常に面倒くさそうな印象のある「親友:ほとんどの旅路を同じパートナーとクリアし、最初に戻る」のトロフィーは、実は、初回クリア後に操作可能になるステージセレクト機能を使い、最終面を選択して、その面だけを同じ相棒とプレイすればOKだ。多分同時に同行も取れるだろう。
苦戦したのは、やはり光の玉を全て集める「超越:一回以上の旅路を通して全ての光るシンボルを集める」だろう。気付いている人も多いだろうが、面クリア時の石碑の前の光る石が、シンボルの(今回プレイでは無く、通算での)取得状況を表示しているし、これらをまとめたチェックリスト状のオブジェ群が、ステージセレクト舞台の右後方に設定してある。これらでチェックしながら、抜けがある面を何度もトライして集めるべし、である。
特に難しかったのが、寺院の隠し玉と、スノボ面である沈んだ都市の3つ目か。
寺院の方は、何度も何度も探してプレイしている内に、ある時一緒になった相棒が、あ、こいつ探してるな、と察して、付いてこい!とばかりにぽわんぽわんしながら誘導して教えてくれた。なんとこんな所にあったのか!と、非常に感謝してぽわんぽわん挨拶して一緒にクリアしたら、その後、おいチョット待て!お前これも知ってるか?付いてこい!と、またダイブ。ああ、寺院の底にいる謎生物のトロフィーでしょ、それはもう取ったよ、と思ったが、相棒があまりにウキウキと教えてくれようとするので、やむなく知らない振りをして付いていって、謎生物の場所でぽわんぽわん連打して大喜びのポーズを取っておいた。光の玉を教えてくれたので、まあ、これぐらいはサービスだな。
このように、非言語コミュニケーションを導入した本作のネット協力プレイでの体験は、その意思疎通の意外なスムーズ感と、そしてやはりどこかもどかしい伝わらなさを共に感じる事ができ、独特のプレイ感を演出している。これらはプレイシチュエーションに強く依存するため、一回のプレイでは中々体験しきれないものがあり、ぜひ、トロコンなどを目指しながら周回プレイを行うことを推奨するものだ。
最後に取ったトロフィーは、「未完:橋を完全に再建築しないで橋を渡る」である。これはステージ2の橋脚に布の端を作り切らずにクリアすれば良いが、普通にやっても難しい。実は、上記の超越を達成すると、ボーナスとして白い衣装に着替えてプレイすることができるようになり、白衣装だと、地面にいる時に自動的にマフラーの飛びゲージが回復するという、素敵な能力がボーナスとして付く。よって、この能力を使えばクリアしやすいだろう。それでも面セレクトで飛んで、計5個の光だけを採った状態では、飛翔距離もそれほどは長くなく、タイミングや踏切位置など若干難しい面もある。私がプレイした際には、同じ白プレイヤーが相棒になって、ちょうどその人もこのトロフィーを狙っていたのか、橋を架けずに飛んでいた。私がトロフィーを狙い始めると、すぐに意図を理解してスタート地点まで戻ってきて、またしても、こっちだ!とばかりにぽわんぽわん飛び方を模範演技して教えてくれたりした。こうして丁寧に教えてもらったおかげで、楽々とクリアできたのだった。
私のプレイは、トロフィー目当てだったので、その面だけ遊んで、取れたら終わり、というつもりだった。だから、上記のように一緒に遊んだ相棒が、次の面も一緒に遊ぼうぜ、と意気込んできたら、ちょっと面倒だな、と思う。早々に切り上げて零の軌跡をプレイしたのに、と思いつつ、でも、丁寧にトロフィー取得を手伝ってくれた親切な人だしなぁ、と思って接待プレイすることになるかも知れない。特に、言語コミュニケーションで挨拶や会話などを交わしてしまうと、なかなか抜けにくいだろう。
だが、このゲームはぽわんぽわんの非言語コミュニケーションしか無いので、その敷居がとても低い。スッと関与できるし、スッと離れることもできる。この距離感が中々素晴らしいと思った。
コミュニケーションというものは、確かに楽しい面もあるが、相手が人格を持った人である以上、やっぱり面倒な側面も持つ。楽しければ熱中するが、面倒だと思えばプレイも遠のく。この塩梅をどうコントロールするかという観点から、本作は非常に秀逸なゲームデザインをなしえていると思われる。この相棒とのプレイ感、そしてその水切れの良さが、本作のキモであると感じた。このゲームにおいて、グラフィクスや雰囲気はお飾りに過ぎないだろう。
最後に、本作のテーマや背景に関して。
最初に通してプレイした時には、宗教色の強いテーマ性にやや食傷した感もあったが、何度も周回プレイするといろいろと見えてきた。
最初は、単純に輪廻転生をモチーフにしただけかと思っていたが、そうではなさそうだ。
まず、大きなテーマとして戦争がある。
なぜ、このゲームではプレイヤーは非言語コミュニケーションしか持ち得ないのか。それは、コミュニケーションの断絶がもたらした全面戦争とそれによる文明社会の崩壊を経ているからだ。よく見ると、それが壁画の物語で語られている。バベルの塔の故事にも似ているだろう。
その戦争の遺物こそがいまだ現存する怪物であり、それらに苛まれることが、プレイヤー達の負った過去の大戦という原罪に対する贖罪なのである。
それは果てしの無い旅である。
このゲームではゴールには到達し得ない。
本作をプレイ開始すると、誰しもすぐに、ああ、あの山の頂上を目指すのね、と理解するだろう。しかしゲームの終盤、プレイヤーは、そこを目指しながら、その目の前まで迫りながら、到達する事が叶わずに斃れるのだ。むしろ最後は靄に霞んで、眼前まで迫ったはずの頂きすら見えない。ひょっとすると迫ったように見えたのも幻だったのかもしれない。徒労だったのかもしれない。この歩みは、この旅路は、何の意味も無かったのかもしれない。そう思いながら、プレイヤーである旅人は雪山に崩れ落ち、事切れる。
その後、一転して色鮮やかな別世界に飛ばされ、パライソの如き風光明媚な山頂へと舞うが、これはあくまで死後の幻想であって、人生という苦難だった旅に対する僅かばかりの駄賃に過ぎない。現実は、山頂には到達できずに途中で死んだのであり、そして生まれ変わって新たな旅人となり、また山頂を目指す巡礼の旅を始めるのだ。このゲームでは、何度プレイしようと、生きたまま山頂にたどり着く事は叶わない。何度挑もうと、最後は前のめりに倒れて死ぬ。その度に、旅人は生まれ変わり、その度に、一つずつ、辺りに無数に立つ墓標の光が消える。つまり、先の大戦で加害者となり同時に犠牲者となったすべての人々がこの贖罪の旅を終えるまで、この円環の儀式は続くのであろう。
壁画からは、そのようなイメージを、私は受けた。
風ノ旅ビトの原題は、Journeyである。この、旅、というものが人生そのものを喩えている事は明らかだが、そこに込められた意味は、意外と深い。
人生とは重荷を背負いて長き道を行くが如し、と徳川家康は諭したというが、その言葉やこのゲームが表現しようとしているものは、人生は辛いけどがんばれ、という様な単純なものではない。
このゲームでは、結局、プレイを終えても何も変わらない。またスタート地点に戻って、新しい旅を始める事しかできない。
全くの無意味である。
現実の人生も同じだ。全くの無意味である。重き荷にも長き道にも、砂漠にも、雪山登山にも、何の意味も無い。それをしようと、しまいと、何も変わらない。居ても居なくても何も変わらない。無から生まれ最後は無に帰る。それが人生の本質であって、重き荷も長き道も、その本質的な無意味さがもたらす虚無への恐怖を表現したものに過ぎない。
しかし、暗澹たる気持ちになる必要は無い。
人生には意味は無いが、だからこそ、人生には価値があるのだ。
このゲームでは、クリアしても何も変わらず、何も成し遂げられないが、そのプレイのインプレッションそのものはプレイヤーに獲得され、それは揺るがない。どんなルートを通るか、どんなアクションを行うか、相棒と共に歩くか、孤独を貫くか。無意味だと知りつつその刹那のパターン認識の同調あるいは不調を認知しあう非言語コミュニケーションの妙。もちろん、その体験自体に意味があるわけでは無い。しかし、その体験には感情を波打たせる確かな「価値」がある。
遠からず波濤が洗うだろうと分かっていながら、一心不乱に魂を込めて砂の城を築く行為には、確かに何の意味も無いだろう。そして同時に、とても美しいと思う。そこに素晴らしい価値があると感じる事が、人には出来るのだ。
ゲーム自体が、これと同じ構造を持つ。ゲームといった暇つぶしの遊技には、実生活において何の意味も無い。役に立つわけでも無い。無くても生存には関係ない。時間やエネルギーの浪費という観点からはあればむしろ有害かもしれない。
それでも、いや、それだからこそ、その行為自体に何の意味も無いからこそ、ゲームプレイという体験には無上の愉悦と価値がある、そう私は考える。これは、ゲームに限らず、他の娯楽にも多く当てはまるだろう。誰かが作った架空のお話など読んだところで腹がふくれるわけでも無い。全くの無意味だ。にも関わらず、人はそれを求めるのだ。娯楽は無意味である。否、人生そのものが無意味な浪費なのだ。
どんなに頑張って生きても、誰しもいずれ死ぬ。子をなしたところで、やがて子も死ぬ。民族は遠からず滅亡する。生物は度々絶滅する。海は遅かれ早かれ干上がる。地球は太陽の寿命と共に消し飛び、星々の火もゆくゆくは絶え、宇宙は一条の光とて無いヒートデスに終焉する。幾劫を経て新しい宇宙が生まれるかもしれないが、それもすぐに終焉するだろう。
それなら、この、塵にも満たない自分の人生って何だろう。自分の人生に、意味などあるのだろうか。そう疑問に思わない人は居ないだろう。
そう。もちろん意味など無いのだ。全くの無意味。そして何の意味も無いから、そこに価値がある。意味が無いからこそ、人生には、生きる価値があるのだ。
この行いには意味など無い。それを実感しつつ生きる事こそが、このゲームが旅路として象徴するものであり、家康の言葉の真意である。無意味だと知っているからこそ、真剣に楽しめるのだ。むしろ逆に、それでこそ楽しむという事の本質を知っていると言えるだろう。単なる喜怒哀楽を超越し、無意味なる存在そのものの喜悦を享受すべし。
えらく話が膨らんでしまったが、要は、汲もうと思えばいろいろと汲めるテーマと表現を持ったゲームだろう、と言う事。
単純に、ゲームプレイとしても面白かった。特にトロコン目指して周回プレイした事で、だいぶ印象が変わったと思うが、そうで無かったともしても、チョット変わった雰囲気アクションゲーぐらいに捉えたとしても価格分は十分ペイするだろうからお薦めである。