桜井政博のゲームについて思うこと2 | 読んだり観たり聴いたりしたもの

桜井政博のゲームについて思うこと2

少し前になるが前著に続いて読んだ。

2005年頃の連載という事で、トピック的には、DS・PSPが登場して覇を競い、桜井さんはメテオスの制作に大わらわ、という時代。

相変わらず業界の将来を深く見据えた発言には首肯するばかり。特に、目先の売り上げではなく、どうやってゲーム初心者を呼び込むのか、どうやって彼らを楽しませるのかについての意識には感服する。もちろん、それが仕事なんで、という事ではある。誰でも仕事には真摯にまじめに取り組むものだろう。しかし、それにしても、業界を取り巻く状況や自分一人では如何ともしがたい環境に倦んでしまう気持ちもある訳で、そこでモチベーションを保っていけるかどうかが一流のプロとそれ以外との差になってくるのだろう。

それにしても、前著を読んでも感じた事だが、作品の批評というものについて実に猛省を促された。

偉そうに格好付けて、分かったような事を書いて批判している作品の、一体どれだけの事を本当に自分は分かっているのか。
他人が人生を掛けて文字通り命を削って創り出した作品を、一言下に蹴り落とすだけの論拠を、本当に自分は持っているのか。批判する自由の裏には批判による責任もある。
当時から既に萌芽があったとは言え、現在のネット上でのディスリスペクトの猛威を、制作の熱意を殺ぎコミュニティの縮小を招くだけの無益な行為として批判し続けている事は先見性があったと思うし、むしろ現場での切実な実感だったのだろうと思う。

このブログなんかは単なる個人の記録帳の域を出ないものだが、それでも見返してみると、あんた何様ですかというような記述も多く、顔から火を噴く思いだった。今年はこの猛暑を活かして行きたい。

結局、個人の趣味などは、多様性が高く、一面だけを見ては判断できないと言う事。
最悪の仕様も、最低の表現も、私にはそうだった、というだけで、それを最高と楽しむ人がいるかも知れないし、そうした人に向けて制作者は制作したのかも知れないのだ、という事は常に肝に銘じておきたい。

もちろん、私はこう思った、と書くのは良い。私には面白くなかった。私にはつまらなかった。
だが、それをあたかも大衆の合意かのように格好付けて一般論として断定して書くのはちょっと卑怯だぞ、と言う事だ。


桜井政博
桜井政博のゲームについて思うこと2