減速思考 デジタル時代を賢く生き抜く知恵/R・ワトソン/北川知子 | 読んだり観たり聴いたりしたもの

減速思考 デジタル時代を賢く生き抜く知恵/R・ワトソン/北川知子

図書館のフェアで手に取ってみた。未来学者でもあるコンサルタントが、人間の知的生産を妨げるデジタルデバイスの脅威を説く。

先日読んだIT断食がビジネスシーンにフォーカスしていたように、この本では就学児童・学生からビジネスマンまであらゆる知的な作業に携わる人達が、デジタルデバイスの氾濫によりどのように影響を受けているのか広く検証する。
表層的で速度が要求される情報処理に追われ、集中し、じっくりと考える事の出来なくなった現代環境を案じ、深く優れた思考を生み出すための処方箋を示す。

論拠の提示があっさりでやや説得力に欠け、また結論はやや性急で固定的に思われるが、全体としての内容には首肯する部分が多いと思う。

少なくとも一つ言える事は、なんでも行きすぎはダメだろう、ということだ。デジタルデバイスもネットも適切に使えば便利だが、逆にこき使われるような生活を送っていては、人生をドブに捨てているだけだ。

ただし、ここで注意しなければならないのは、人生をドブに捨てたら何がダメなの?という議論だ。

ニコチンには依存性があるので、ある程度の量の煙を吸い続けた人は誰でも喫煙習慣が付く。それは生理的なメカニズムであって、本人の意志とは関係ない。ネットやデジタルコミュニケーションにも同じような依存性があるのだろうと思う。私自身もネット掲示板にはまっていた時期があり、何百時間単位で時間を費した事だろうか。

その昔、学生の頃は喫煙もしていた。だが、妻のお陰で禁煙できた。婚約者に「禁煙しなければ結婚しない」と言われた男は、命がけで禁煙に成功する以外に道はない事を聡明な彼女は知っており、二人の幸福のために、それを利用したのだ。見聞きする麻薬中毒の禁断症状の辛さに比べたら、禁煙のそれはかなり楽だったろう。それでも、大の大人が、幾日も夜中に身を捩っては涙を流したものだ。目の前にぶら下がった結婚というエサが無ければ達成は困難だったろう。

今では吸いたいという欲求は皆無であるし煙の匂いを嗅ぐのも嫌いだが、しかしその一方で、喫煙していた時の幸福も忘れず覚えている。朝起きての、そして食後の一服の安らぎ。難問を前に熟考しつつ火を付けた一服のもたらすひらめき。汗をかいて鋤を振るい、畦に座して一服しながら見上げた青い空。

出来るだけ多様な経験を持つ方が豊かな人生だ、とする価値観なら、こうして紫煙を燻らせた経験は、私の人格形成にとって何らかのプラスがあったと言えない事もないだろう。私は自身の喫煙経験を決して誇るものではないが、かといって悔やむ事も卑下するつもりもない。もちろん健康の面からは確実にマイナスであった事は明らかだ。どれだけの寿命をドブに捨てたか分からない。副流煙などで周囲にどれだけ迷惑を掛けたかも分からない。ちなみに煙と灰を作るために費やした金額は推定60万円程だろう。愚か者と断ずるのはたやすいし、実際、間違いなくその通りだろう。反論の余地はない。

だが、ひとは誰も、愚かに生きる権利がある。自身の人生をドブに捨てる権利を、誰しも持っているのだ。他人に迷惑を掛けなければ、どう生きようとその人の勝手である。
喫煙の良いところも悪いところも重々知って、それでも煙にまみれて生きたいと願う人がいるのなら、私に煙を臭わせない限り、私はその人に何かを言うつもりはない。私の父も愛煙家で、タバコで命を落とす可能性は高いだろうが、それが父の選んだ人生なら、それで良いのだろうと思う。

ネットやデジタルデバイスでの過度のコミュニケーション洪水も、同じような側面があるだろう。
例えどんなにIT中毒による弊害が立証され喧伝されたとしても、デジタルの世界に溺れて、溺れて、溺れ死ぬのも、成人であるならば本人の自由だ。
私もネット掲示板で浪費した多大な時間は、全く無駄で、そして同時に、実に面白い体験だったと思う。極論すれば人生は全て浪費である。他にする事よりそれが楽しいと思うのなら、他人がどんなに無意味な浪費だと批判しようが、堂々と人生をそのドブに注ぎ込めばいいだろう。後悔さえ人生では薬味である。背徳感は蠱惑の珍味であろう。

問題点があるとすれば、本人が望んでいないのにそれを強制されている場合で、特に判断力のない子供の場合などである。これは宗教や副流煙の問題と同じである。
私は、18才未満の携帯電話・メール端末・その他デジタルコミュニケーションツールの使用は、禁じた方が良いと思う。WiiUのMiiverseも同様である。未成熟な人格のままデジタルコミュニケーションの洪水に晒された事による弊害の研究は、今後もっと重要になるだろう。非常に身勝手な主張であるとは思うが、社会を担う人々が皆溺れ死んでしまった世界では、あまり余生を過ごしたくはないと私は思う。

過度のコミュニケーション、過度のテレビ鑑賞、過度の読書、過度のゲーム、過度のスポーツ、過度の勉強。なんでもやりすぎは良くない。特に子供はバランス良く色々とほどほどに行うべきだ。バランスを崩してしまう仕組みがそこにあるのなら、それは是正されるべき課題である。

集中する事。じっくりと深く考える事。リラックスを得る事。そしてインタラプトが入らない事。
こうした、知的生産活動の水準を維持するために必須のファクターを、容易にかつ徹底的に破壊する物が、現代のICTガジェットである。まずはその電源を切るところから全てがスタートする。

それでも。多少の弊害があれど、ICTによる効率的で革新的な情報インフラの実現を思えば、それは限定的で過渡的な問題ではないか、と考える向きもあろう。
個人的には、ICTが夢見るような、そうしたビジョンにはあまり明るい未来を感じていない。
ここ20年の、インターネットをベースとしたICTの勃興が打ち立てた技術革新は、確かに素晴らしい。弊害を織り込んでさえ、一定の成果を得たと思う。しかし、今後もそうした方向で発展することがバラ色の社会に繋がるとは、個人的には素直には考えられない。
紙幅がないので割愛するが、私は、ネットやICTのパワーには割合懐疑的な方である。
なぜなら、ものすごく平たく言うと、ICTはしょせん情報通信技術であって、人間は情報では腹はふくれないからだ。知識やコミュニケーションとは、生きる手段であって生きる目的ではない。

ネットとは一言で言えば、拙速。無秩序。情報というものは、その内容以上に、誰からの発信か、という点が重要なはずである。それが曖昧になる時点で集合知というものが知識以上の知恵になる可能性はないだろう。
あらゆる個人が安易に情報発信できるという状況は、多分、絶対の善ではないのだろうと思う。
こうした発信側のコストがほとんど無視できるというインターネットに特有の性善説に基づいた設計思想が、多くの混乱の原因となっている。結局何倍にも膨れあがったコストを払うのは受け手となるからである。

ネットを全否定して排除せよと言っている訳ではない。要は使い方なのである。

R・ワトソン/北川知子
減速思考 デジタル時代を賢く生き抜く知恵