大阪ハムレット 4巻/森下裕美
ヘンテコ大阪漫画も第4巻。
今巻も期待通り変な話が6話。コンサート前後編。阿倍野マリア前後編。おカアさんのいた街前後編。
こうしてこの漫画を読み終わって思うのは、結局、人間なんて誰も、せせこましく案じて動いて働いて、生まれて生きて死んで、と、ただただ、そんな凡庸で下らない日常の積み重ねなのだという事だ。そしてそんな下らない人間のうごめく様を、どうしようもなく見聞きしたい、という業とも呼べる人間の性がある、という事なのだ。
第1巻の第1話。父が死んだ直後、母と自分に寄り添って一緒に暮らしはじめるおっちゃんとの関係に悩む中学生久保君の、表題としてハムレットになぞらえた物語。自身をハムレットと揶揄された彼は苦労して原作を読んで先生に突っかかる。この物語の意味は何やねん?何で悲しい事辛い事がおこらなあかんねん。不良少年にビビる先生は答えて曰く、だって物語やから、その方が面白いですやん。ぶち切れる久保君。
と、おぼろな記憶で思い出して書いたが、結局は、これに尽きるのである。これが真理なのだ。
人間は、人間の話を見聞きするのが大好きなのだ。そしてどうせ見るなら、嬉しい事も悲しい事も盛りだくさんの話の方が面白いから大好きなのだ。
物語に込められたテーマとか暗示されたモチーフとか、そんなんどうでもええねん。
作者はこの漫画を、面白い話、として描き、読者は面白い、と言って読む。それだけのシンプルな関係であり、シンプルな作品である。そしてそのダイレクトなシンプルさ自体が、もっとも才能と技術を要する点なのだろうとしみじみ思った。
「コンサート」で描かれるのは、大和郡山の中学校の同級生だった女性三人が40歳で再開しそれぞれの生き様を噛みしめる様である。いじめられっ子だった主人公福子は、東京の鍼灸院に勤め、26年ぶりに、かつてのいじめっ子京香に偶然再会する。慣れない東京暮らしで、いじめられっ子の娘を持つ母になっていた、かつてのいじめっ子に対し、変わらない思い出と変わってゆく印象。そして彼女の好意で、もう一人の女性への細い糸を辿る。いじめられっ子だった福子に当時親しくしてくれた理代である。ギャンブル狂の父の元、幸福ではない人生を送っていた中学生の理代は、それでも凛として大きな世界に駆ける夢を持っていた。しかし、母が死に、父と夜逃げをする事になった理代に、福子はとうとう向き合えないまま、別れを言う事ができないまま26年が過ぎていた。再開した理代は少女の夢のように成り上がる事もなく、水商売で辛酸を舐め痛々しい暮らしをしていた。夢を持つ一方で、金魚になぞらえ、「どこに逃げても 運命はかわらんのに」と諦観する心も中学生だった理代の一面であった。その運命から逃れる術はなかったのだろう。
理代の母が亡くなった直後、福子の家に深夜借金の無心に来た理代の父。そのおぞましさ。鳥肌が立つような、不幸の穢れの描写にはぞっとする。その穢れにまみれるのを厭い、親友を救えなかった福子。哀しみと困窮の淵に沈む理代を、救いに行く勇気のもてなかった福子は、悔恨と共に生きてきた。そして「現在も」彼女が不幸の陰に囚われたままである責任の、そのどれだけが、かつて少女だった自分に存するのだろうか。福子がその後、かつて自分をいじめた京香と親しくし親身に接するようになるのは、そうした代償なのかも知れない。本作の扉絵、親友だったはずの福子と理代の間に横たわる水路は、人の間を裂く、不幸による隔絶を象徴するかのようだ。
と、まあ、上で書いている「シンプル」とは間逆な感じの感想であるが、読者が勝手に深読みできるのは、それはシンプルな作品がもつ力強さゆえである。
薄幸の美少女が、気が強くて夢を持っていたにもかかわらず、やっぱり不幸な運命に翻弄されたままという、自然な描写がポイントなのだろう。京香も、福子に昔のいじめを謝る事はない。多分本人は当時もいじめてると思って無くて、またそんな過去や、まして福子が今でも夢に見て悲しむ気持ちなど、思いもよらないのだろうと思う。
安易に過去は清算されることなく、うやむやに現在は積み上がってゆく。それが「変な話」の印象であり、そしてある種のリアリティとして魅力に繋がるのだろう。
「阿倍野マリア」。すごいベタなタイトルである。
イタリア料理を修行中のミチルは、女性しか愛せない女性だ。ミチルの姉は子宮全摘の手術を受け、子供を産めない事を生涯負い目に感じるよりはと、愛する夫に別れを迫る。せめて子供がいれば、という母や義兄の妄想は、ミチルの代理母出産へ繋がってゆく。しかし、未婚で出産経験のないミチルに代理出産は許されない。処女懐胎は、無理なのである。
そんな折り、ミチルは店の客だった詩織に惹かれ、交際するようになる。ミチルの恋愛心を知っても付き合ってくれる詩織との仲を、ゆっくりと深めてゆく。
この作品でキーになる言葉。みんな同量の幸福なんてありえへん。でも足して分け合えばいい。
そして、「そのままの あなたが 好き」。女しか好きになれないと知ってもミチルに思いを寄せてくれる同僚のシンヂの言葉であり、そしてミチルから詩織への言葉である。もちろん、義兄から姉への想いも含まれているだろう。そのままでいい。例え生まれ変わったとしても、また同じあなたにしかなれないのだから。
「おカアさんのいた街」は心に傷を負った一人のフィリピーナの話である。子供の頃姉が自殺した。好きな人と結ばれない運命を拒否し、結婚式の当日、銃で自分を撃ち抜いたのだ。それ以来、神様を信じる事ができなくなった主人公のサビィは、紆余曲折の末、日本人男性と結婚し大阪で暮らす。2巻で出てきた、バレエの先生の話。その生徒だったハナコの伯父が、サビィの旦那である。
ハナコの母、史子は生母から辛く当たられて育った。その史子を、ウチの嫁に文句言うとはどういう了見だ、手ェついて謝らんかいと、かばい守ってくれた義母が居たのを覚えているだろうか。あの義母は、今、死に瀕しているのだ。手術を受けた後ずっと入院し、この先もう長くないという事で、一旦、家に戻される事となった。暮らしていた八百屋の実家は、店の仕事もあるし、史子がもうすぐ臨月という事もあり、サビィのマンションでしばらく預かる事になった。旦那の、長男としての意地のようなものもあっただろうか。
サビィは別に好きで旦那と結婚した訳ではない。単に日本で生存する権利を求めての事だった。女性に縁が薄く気弱で優しい旦那はサビィの好きにさせてくれ、気ままに暮らしてきた。
だから急に母の介護を打ち明けた旦那は、まさかサビィがあっさり二つ返事で諒解するとは思ってもいなかった。受け入れの準備からはじめ、家事に介護にサビィは献身的におカアさんに尽くす。
突然に姉を失ったあの日から、また失って悲しむぐらいなら、もう誰も深く愛さないと誓ったサビィ。
でも、一人はもっとイヤ。だから、おカアさんの世話を頼まれたのは嬉しかったのだ。頼りにしてくれる。褒めてくれる。そして、おカアさんとずっと一緒にいられる。
いや、ずっとではない。目標にしていた年内を待たず、おカアさんは旅立ってしまう。
死んだら仏様神様になると信じる日本の風習。数限りない神に囲まれていても、やっぱりおカアさんはこの街には、もういないのだ。サビィの、持って行き場のない、叫びのような祈りは、どこに届くのだろうか。
PSのサンパギータ をプレイしたお陰で、幼いサビィが摘んでいるのが、フィリピンの国花であることが分かってちょっと嬉しかった。あと、ミチルがシンヂに秘密を打ち明けるシーンには百合の花を持ってきたりと、結構花が印象に残った巻だったかも。
何か、4巻まで読んで急に気が付いた感じなのだが、森下裕美は、かなり作画が手塚治虫に影響受けてるなあ、と思った。時々、あれっと思う程そっくりだ。
不定期連載のようで、取り敢えず刊行されているのはこの4巻までである。
すごく面白いシリーズだったと思う。作者の別の作品も漁ってみようと思う。
大阪ハムレットの過去エントリ

森下裕美
大阪ハムレット 4巻
今巻も期待通り変な話が6話。コンサート前後編。阿倍野マリア前後編。おカアさんのいた街前後編。
こうしてこの漫画を読み終わって思うのは、結局、人間なんて誰も、せせこましく案じて動いて働いて、生まれて生きて死んで、と、ただただ、そんな凡庸で下らない日常の積み重ねなのだという事だ。そしてそんな下らない人間のうごめく様を、どうしようもなく見聞きしたい、という業とも呼べる人間の性がある、という事なのだ。
第1巻の第1話。父が死んだ直後、母と自分に寄り添って一緒に暮らしはじめるおっちゃんとの関係に悩む中学生久保君の、表題としてハムレットになぞらえた物語。自身をハムレットと揶揄された彼は苦労して原作を読んで先生に突っかかる。この物語の意味は何やねん?何で悲しい事辛い事がおこらなあかんねん。不良少年にビビる先生は答えて曰く、だって物語やから、その方が面白いですやん。ぶち切れる久保君。
と、おぼろな記憶で思い出して書いたが、結局は、これに尽きるのである。これが真理なのだ。
人間は、人間の話を見聞きするのが大好きなのだ。そしてどうせ見るなら、嬉しい事も悲しい事も盛りだくさんの話の方が面白いから大好きなのだ。
物語に込められたテーマとか暗示されたモチーフとか、そんなんどうでもええねん。
作者はこの漫画を、面白い話、として描き、読者は面白い、と言って読む。それだけのシンプルな関係であり、シンプルな作品である。そしてそのダイレクトなシンプルさ自体が、もっとも才能と技術を要する点なのだろうとしみじみ思った。
「コンサート」で描かれるのは、大和郡山の中学校の同級生だった女性三人が40歳で再開しそれぞれの生き様を噛みしめる様である。いじめられっ子だった主人公福子は、東京の鍼灸院に勤め、26年ぶりに、かつてのいじめっ子京香に偶然再会する。慣れない東京暮らしで、いじめられっ子の娘を持つ母になっていた、かつてのいじめっ子に対し、変わらない思い出と変わってゆく印象。そして彼女の好意で、もう一人の女性への細い糸を辿る。いじめられっ子だった福子に当時親しくしてくれた理代である。ギャンブル狂の父の元、幸福ではない人生を送っていた中学生の理代は、それでも凛として大きな世界に駆ける夢を持っていた。しかし、母が死に、父と夜逃げをする事になった理代に、福子はとうとう向き合えないまま、別れを言う事ができないまま26年が過ぎていた。再開した理代は少女の夢のように成り上がる事もなく、水商売で辛酸を舐め痛々しい暮らしをしていた。夢を持つ一方で、金魚になぞらえ、「どこに逃げても 運命はかわらんのに」と諦観する心も中学生だった理代の一面であった。その運命から逃れる術はなかったのだろう。
理代の母が亡くなった直後、福子の家に深夜借金の無心に来た理代の父。そのおぞましさ。鳥肌が立つような、不幸の穢れの描写にはぞっとする。その穢れにまみれるのを厭い、親友を救えなかった福子。哀しみと困窮の淵に沈む理代を、救いに行く勇気のもてなかった福子は、悔恨と共に生きてきた。そして「現在も」彼女が不幸の陰に囚われたままである責任の、そのどれだけが、かつて少女だった自分に存するのだろうか。福子がその後、かつて自分をいじめた京香と親しくし親身に接するようになるのは、そうした代償なのかも知れない。本作の扉絵、親友だったはずの福子と理代の間に横たわる水路は、人の間を裂く、不幸による隔絶を象徴するかのようだ。
と、まあ、上で書いている「シンプル」とは間逆な感じの感想であるが、読者が勝手に深読みできるのは、それはシンプルな作品がもつ力強さゆえである。
薄幸の美少女が、気が強くて夢を持っていたにもかかわらず、やっぱり不幸な運命に翻弄されたままという、自然な描写がポイントなのだろう。京香も、福子に昔のいじめを謝る事はない。多分本人は当時もいじめてると思って無くて、またそんな過去や、まして福子が今でも夢に見て悲しむ気持ちなど、思いもよらないのだろうと思う。
安易に過去は清算されることなく、うやむやに現在は積み上がってゆく。それが「変な話」の印象であり、そしてある種のリアリティとして魅力に繋がるのだろう。
「阿倍野マリア」。すごいベタなタイトルである。
イタリア料理を修行中のミチルは、女性しか愛せない女性だ。ミチルの姉は子宮全摘の手術を受け、子供を産めない事を生涯負い目に感じるよりはと、愛する夫に別れを迫る。せめて子供がいれば、という母や義兄の妄想は、ミチルの代理母出産へ繋がってゆく。しかし、未婚で出産経験のないミチルに代理出産は許されない。処女懐胎は、無理なのである。
そんな折り、ミチルは店の客だった詩織に惹かれ、交際するようになる。ミチルの恋愛心を知っても付き合ってくれる詩織との仲を、ゆっくりと深めてゆく。
この作品でキーになる言葉。みんな同量の幸福なんてありえへん。でも足して分け合えばいい。
そして、「そのままの あなたが 好き」。女しか好きになれないと知ってもミチルに思いを寄せてくれる同僚のシンヂの言葉であり、そしてミチルから詩織への言葉である。もちろん、義兄から姉への想いも含まれているだろう。そのままでいい。例え生まれ変わったとしても、また同じあなたにしかなれないのだから。
「おカアさんのいた街」は心に傷を負った一人のフィリピーナの話である。子供の頃姉が自殺した。好きな人と結ばれない運命を拒否し、結婚式の当日、銃で自分を撃ち抜いたのだ。それ以来、神様を信じる事ができなくなった主人公のサビィは、紆余曲折の末、日本人男性と結婚し大阪で暮らす。2巻で出てきた、バレエの先生の話。その生徒だったハナコの伯父が、サビィの旦那である。
ハナコの母、史子は生母から辛く当たられて育った。その史子を、ウチの嫁に文句言うとはどういう了見だ、手ェついて謝らんかいと、かばい守ってくれた義母が居たのを覚えているだろうか。あの義母は、今、死に瀕しているのだ。手術を受けた後ずっと入院し、この先もう長くないという事で、一旦、家に戻される事となった。暮らしていた八百屋の実家は、店の仕事もあるし、史子がもうすぐ臨月という事もあり、サビィのマンションでしばらく預かる事になった。旦那の、長男としての意地のようなものもあっただろうか。
サビィは別に好きで旦那と結婚した訳ではない。単に日本で生存する権利を求めての事だった。女性に縁が薄く気弱で優しい旦那はサビィの好きにさせてくれ、気ままに暮らしてきた。
だから急に母の介護を打ち明けた旦那は、まさかサビィがあっさり二つ返事で諒解するとは思ってもいなかった。受け入れの準備からはじめ、家事に介護にサビィは献身的におカアさんに尽くす。
突然に姉を失ったあの日から、また失って悲しむぐらいなら、もう誰も深く愛さないと誓ったサビィ。
でも、一人はもっとイヤ。だから、おカアさんの世話を頼まれたのは嬉しかったのだ。頼りにしてくれる。褒めてくれる。そして、おカアさんとずっと一緒にいられる。
いや、ずっとではない。目標にしていた年内を待たず、おカアさんは旅立ってしまう。
死んだら仏様神様になると信じる日本の風習。数限りない神に囲まれていても、やっぱりおカアさんはこの街には、もういないのだ。サビィの、持って行き場のない、叫びのような祈りは、どこに届くのだろうか。
PSのサンパギータ をプレイしたお陰で、幼いサビィが摘んでいるのが、フィリピンの国花であることが分かってちょっと嬉しかった。あと、ミチルがシンヂに秘密を打ち明けるシーンには百合の花を持ってきたりと、結構花が印象に残った巻だったかも。
何か、4巻まで読んで急に気が付いた感じなのだが、森下裕美は、かなり作画が手塚治虫に影響受けてるなあ、と思った。時々、あれっと思う程そっくりだ。
不定期連載のようで、取り敢えず刊行されているのはこの4巻までである。
すごく面白いシリーズだったと思う。作者の別の作品も漁ってみようと思う。
大阪ハムレットの過去エントリ