どうすれば「人」を創れるか アンドロイドになった私/石黒浩
例によって、アンドロイド研究の第一人者、石黒センセの本。新刊らしかったので手に取った。
内容は、著者の代表的な業績を振り返りながら、過去から現在まで、何を問い、何を求めて研究してきたかを、エッセイ風の軽めのタッチで語ってゆくものである。
非常に読みやすく面白いので、石黒さん初めて、という人に特にお薦めしたい。
著者の研究テーマを簡単に説明すると、ロボットの機能的な工学研究ではなく、AI的な研究でもなく、もっと人文寄りの、アンドロイドと人間のコミュニケーション、相互認知の研究となるだろう。
あなたが社会において他の人間と関与する際、その存在を「人間」と認知し、それにふさわしいコミュニケーションを取るはずである。
しかし、ぬいぐるみと関与する際には、対「人間」とは大分異なった振る舞いをするだろう。では、ペットの犬ではどうか?そしてロボットではどうなるか?
あからさまに機械然としたロボットには、人はよそよそしいかも知れない。しかし、ロボットの外見をどんどん人間に似せて精巧に仕上げていったらどうか。振る舞いも人間らしい所作を行わせ、感情のこもった声で、豊かな表情とともに会話させたらどうなのか?もしも完全に人間と見まがう究極のアンドロイドには、人は人間として接するはずである。ではアンドロイドを人間と見なさない、「境界」はどこにあるのか。何があれば人はそのその存在を「人間」と見なすのか。
著者は、双子のようにうり二つなジェミノイドと呼ぶ、精巧な遠隔操作アンドロイドを製作し、それをもちいて人間とコミュニケーションすることで、一体何が起きるのかをつぶさに調べてきた。
もちろん現在の技術では、どんなに精巧に作っても、目の前にいるのが人間ではない、ということはすぐに分かる。それでも、それが分かっていながら、それを通して、本人とコミュニケーションを取る時、目の前のジェミノイドを、本人そのものと感じる事ができる。逆に、ジェミノイドを操作する人間は、カメラを通してジェミノイドと相手が対話するのを眺め、そこで対話しているのは自分自身であると感じる事ができる。
こうした感覚を生み出すためには、実はアンドロイドにはそれほど精巧さは必要がない、という事が分かってくる。それを実証するために、要素を簡素化し、女性をモデルとしたジェミノイドFを開発する。
ジェミノイドFは平田オリザ作演出で世界初のアンドロイド演劇に出演し、大変好評を博した。やっぱり見に行けば良かったなあ。本書でその内容を詳しく読んで大変悔しく思った。もし次回があれば必ず観に行きたい。
アンドロイド演劇では、ジェミノイドFの人間離れした程の美しさ神々しさが評判になったという。しかし、それはある意味、人間を越えてしまっている。人とアンドロイドの間に、ある種の断崖をもたらしてしまう。
そこで著者は、人が人として認知する事ができるギリギリの要素までに削ぎ落とした、テレノイド、を開発する。それは、大人のようにも子供のようにも、男にも女にも見える、髪も手足の指先もない、てるてる坊主のような抱っこ人形のようなアンドロイドだった。
写真で見る限りあまりかわいげの無さそうな姿である。一般の人も初見では「気持ち悪い」「不気味だ」という声が半数以上挙がったという。しかし、一旦、遠隔操作されるテレノイドを抱いて会話してもらうと、ほとんど全ての人が、「かわいい」「楽しい」と感想を漏らすという。本当の子供と話しているようだ、と涙を流すお年寄りまでいたという。
著者は、ここから、コミュニケーションにおいて重要な要素が、本人のイメージの投影であるとする。誰にでも見えない、そして誰にでも見える、要素を削ぎ落としたテレノイドは、コミュニケーションの当人が、いかようにもイメージを当てはめやすい。遠隔操作している人の声から想像する姿をそこに見いだすのだ。可愛い声なら可愛い姿を、綺麗な声なら綺麗な人を、テレノイドに見いだすのだ。そして一旦そうしたイメージの認知が成立すると、不気味なテレノイドの表情も、そうしたバイアスが掛かって見えてくるのである。
人間は、他人を、目で見た姿として感じているのではなく、想像力や経験などによる様々な補正を加えた上で感じているのである。
しかめ面で怖い顔の男性には近づきがたい。しかし、その人が優しく話し、破顔一笑するところを一度でも見た事があれば、同じ造形の同じ表情を見ても、受け取る印象は全く異なってくるのだ。
こうした知見はゲーマーとしても見逃せない所だろう。想像を残す余地のある表現。汎用的な表現から自動的に個性を見いだす人の特性。大変興味深い話である。
腹筋運動で減量したり、ジェミノイドとの整合を保つために美容整形したりと、著者の根性には感服した。

石黒浩
どうすれば「人」を創れるか アンドロイドになった私
内容は、著者の代表的な業績を振り返りながら、過去から現在まで、何を問い、何を求めて研究してきたかを、エッセイ風の軽めのタッチで語ってゆくものである。
非常に読みやすく面白いので、石黒さん初めて、という人に特にお薦めしたい。
著者の研究テーマを簡単に説明すると、ロボットの機能的な工学研究ではなく、AI的な研究でもなく、もっと人文寄りの、アンドロイドと人間のコミュニケーション、相互認知の研究となるだろう。
あなたが社会において他の人間と関与する際、その存在を「人間」と認知し、それにふさわしいコミュニケーションを取るはずである。
しかし、ぬいぐるみと関与する際には、対「人間」とは大分異なった振る舞いをするだろう。では、ペットの犬ではどうか?そしてロボットではどうなるか?
あからさまに機械然としたロボットには、人はよそよそしいかも知れない。しかし、ロボットの外見をどんどん人間に似せて精巧に仕上げていったらどうか。振る舞いも人間らしい所作を行わせ、感情のこもった声で、豊かな表情とともに会話させたらどうなのか?もしも完全に人間と見まがう究極のアンドロイドには、人は人間として接するはずである。ではアンドロイドを人間と見なさない、「境界」はどこにあるのか。何があれば人はそのその存在を「人間」と見なすのか。
著者は、双子のようにうり二つなジェミノイドと呼ぶ、精巧な遠隔操作アンドロイドを製作し、それをもちいて人間とコミュニケーションすることで、一体何が起きるのかをつぶさに調べてきた。
もちろん現在の技術では、どんなに精巧に作っても、目の前にいるのが人間ではない、ということはすぐに分かる。それでも、それが分かっていながら、それを通して、本人とコミュニケーションを取る時、目の前のジェミノイドを、本人そのものと感じる事ができる。逆に、ジェミノイドを操作する人間は、カメラを通してジェミノイドと相手が対話するのを眺め、そこで対話しているのは自分自身であると感じる事ができる。
こうした感覚を生み出すためには、実はアンドロイドにはそれほど精巧さは必要がない、という事が分かってくる。それを実証するために、要素を簡素化し、女性をモデルとしたジェミノイドFを開発する。
ジェミノイドFは平田オリザ作演出で世界初のアンドロイド演劇に出演し、大変好評を博した。やっぱり見に行けば良かったなあ。本書でその内容を詳しく読んで大変悔しく思った。もし次回があれば必ず観に行きたい。
アンドロイド演劇では、ジェミノイドFの人間離れした程の美しさ神々しさが評判になったという。しかし、それはある意味、人間を越えてしまっている。人とアンドロイドの間に、ある種の断崖をもたらしてしまう。
そこで著者は、人が人として認知する事ができるギリギリの要素までに削ぎ落とした、テレノイド、を開発する。それは、大人のようにも子供のようにも、男にも女にも見える、髪も手足の指先もない、てるてる坊主のような抱っこ人形のようなアンドロイドだった。
写真で見る限りあまりかわいげの無さそうな姿である。一般の人も初見では「気持ち悪い」「不気味だ」という声が半数以上挙がったという。しかし、一旦、遠隔操作されるテレノイドを抱いて会話してもらうと、ほとんど全ての人が、「かわいい」「楽しい」と感想を漏らすという。本当の子供と話しているようだ、と涙を流すお年寄りまでいたという。
著者は、ここから、コミュニケーションにおいて重要な要素が、本人のイメージの投影であるとする。誰にでも見えない、そして誰にでも見える、要素を削ぎ落としたテレノイドは、コミュニケーションの当人が、いかようにもイメージを当てはめやすい。遠隔操作している人の声から想像する姿をそこに見いだすのだ。可愛い声なら可愛い姿を、綺麗な声なら綺麗な人を、テレノイドに見いだすのだ。そして一旦そうしたイメージの認知が成立すると、不気味なテレノイドの表情も、そうしたバイアスが掛かって見えてくるのである。
人間は、他人を、目で見た姿として感じているのではなく、想像力や経験などによる様々な補正を加えた上で感じているのである。
しかめ面で怖い顔の男性には近づきがたい。しかし、その人が優しく話し、破顔一笑するところを一度でも見た事があれば、同じ造形の同じ表情を見ても、受け取る印象は全く異なってくるのだ。
こうした知見はゲーマーとしても見逃せない所だろう。想像を残す余地のある表現。汎用的な表現から自動的に個性を見いだす人の特性。大変興味深い話である。
腹筋運動で減量したり、ジェミノイドとの整合を保つために美容整形したりと、著者の根性には感服した。