いまファンタジーにできること/U・K・ル=グウィン/谷垣暁美 | 読んだり観たり聴いたりしたもの

いまファンタジーにできること/U・K・ル=グウィン/谷垣暁美

手を入れた講演録などを数編まとめたもので、全体としてみると著者のファンタジー論として形が見えてくる。
先日、ジブリのゲド戦記を見た後、映画に対する原作者ル=グウィンの遺憾の表明など、周辺事情をちらちらと見た事もあって、どんな事を考える人だろうかと、近著を手に取った次第。

もちろん、言わずと知れた大作家だが、ゲド戦記はもちろん、恥ずかしながら何もその著作を読んだ事がない。「闇の左手」ぐらいは教養として読んでおくべきだろうが、かなりの偏食故機会がなかった。

そもそも、ゲーマーでRPGが嫌いではない癖に、大上段に振りかぶったファンタジーにはちょっと苦手なところがある。なぜだか分からないが、腰が引けてしまうのだ。小学生の頃、トールキンの「ホビットの冒険」を手に取った際も、初めの数ページを読み、これから始まるであろう壮大な物語に怖じ気づいて、そっと頁を閉じてしまった。中学生になりぐっと卑近に流行のロードス島戦記を手にした時も、当時激ハマリしていた弟のようには楽しむ事ができず、やはり数頁で離脱。大学生になり、これぐらいは読んでおかないと教養だろうと手にした「指輪物語」も、やっぱりダメだった。佐藤さとるのシリーズも投げたし、エンデの「モモ」「はてしない物語」も脱落した。「ガリバー旅行記」や「ドン・キホーテ」「オズの魔法使い」「ドリトル先生」「アリス」なども、正直に言うときちんと読んだ事はない。グイン・サーガなど足がすくんで近づく事すらなかった。
例外的に読んだものといえば、中学生の頃トーベ・ヤンソンのムーミンシリーズは好きだった。また、大学生の一時期、稲垣足穂に傾倒した事もある。これぐらいである。

ファンタジーとは何なのだろう。ファンタジーについてこうした経験を持つ私は、本書で著者がファンタジーについて熱く語るのを読んで、自分が意固地に食わず嫌いを繰り返していたような気がした。
原初、人々が危険な一日を生き延び、安堵と共に焚き火を囲んで語るその日の話は、語り手そして聞き手の想像力を刺激し、娯楽としての発酵を経て、「物語」へと変化していった。それは神話の誕生であり、そしてファンタジーの誕生でもある。ファンタジーとは人々の想像力に直接に働きかける物語のもっともプリミティブな形式なのである、と著者はいう。
原始の人間にとって世界は混沌であり、想像力によってカオスからコスモスを紡ぎ出す操作そのものが、ファンタジーなのである。世界には善と悪があるということを想像によって世界の闇からすくい上げる事がファンタジーなのであり、龍と魔法の世界でヒーローが悪を倒す形式をファンタジーと呼ぶのでは決してない。私を含めファンタジーに造詣の浅い者は、こうした後者の形式的な色眼鏡でファンタジーを論ずる事が多いと著者は憤る。
過去の名作の焼き直しに過ぎないハリーポッターを、その売上故により集まった免疫のない無知な批評家が、まるでファンタジーの創造主のように持ち上げている現状への辛辣な皮肉は痛快である。

その他、本書の中核をなす児童文学における動物と人間の関係の話や、ゲド戦記の創作秘話など、ファンならずとも興味深い話にはかなり引き込まれた。

本書を読んで、とてもファンタジーが読んでみたくなった。著者に非常に共感するところ大であったのだ。
取り敢えず、「バンビ」を読もうと思う。そしてそのうち著者のアースシーの世界を旅してみたい。


U・K・ル=グウィン/谷垣暁美
いまファンタジーにできること