夏のあらし! 3~8巻/小林尽
結局、入手した2巻までを読んだ直後、古本屋の100円コーナーで大量に見かけてまとめ買い。読み進んで、完結巻まで読了した。
読み始めの時点からは想像も付かない重厚な話であった。大変素晴らしい漫画だったと思う。
この漫画が描いたもの、それを一言で著すなら、「地続きである」という事ではないか。
最終話で、八坂一は横浜から自転車で呉を目指す。来る日も来る日も、夏の太陽の下、汗だくになって坂を上る。そして下り、また上る。
一は、自分の足で、手で、確認したかったのだ。自分が愛した女性を助けようと跳んだ1945年の横浜空襲で、掴みそこね、手をすり抜けて落ちた運命を。自分を守って消えていったあらし。嵐山小夜子が生きた時代。間違いなく生を生きたという証明。そして「今も生きている」という希望。そうしたものへ繋がる道を、自分自身の力で辿る、その象徴としての旅だった。
何日も掛け、体力を削って果てしない距離を走破し、一は呉にたどり着く。
「道って… ホントに… 繋がってるんだな…」
60年前の女性と自分とを結ぶ道は、確かに繋がっていた。
現代の平和な日本。そして1945年の横浜空襲の生き地獄。
どちらの夏にも人はいて、その時代を自分の時代だと感じ、生き、暮らし、そして死んでゆく。
信じられないほど相貌の異なる二つの時代は、しかし、確かに繋がっているのだ。気が滅入る程の隔たりを持ちながら、しかし、同時に「たかだか チャリで 戻れるキョリ」なのである。
そして、「新幹線を使えば(略)4時間で」行けてしまうキョリに過ぎないのだ。
「ここまでの…あの道のりを たったの4時間で」
「それが今 俺は信じられない 貴女にそれを伝えたい」
この「信じられない」という実感を、イメージとして持ち続ける事、それこそがこの漫画の焦点だろう。
横浜と呉は、地続きである。
横浜空襲と現代の平和は、地続きである。
あらしの時代と、一の時代は、地続きである。
そして、さらに、もう一歩踏み込んだ作者の矜持がのぞく。
漫画と戦争は、地続きである。
コメディと戦争は、地続きである。
ラノベ調ギャル漫画と戦争は、地続きである。
戦争とは我々が歩いてきた道であり、今後歩いていく道でもある。平和な日本では、今更戦争?と思えても、果てしなく遠い異世界に思えても、実際には、たったの4時間もあればたどり着いてしまうのだ。技術の進歩はそれをさらに早めるかも知れないし、逆にそこから連れ戻す事にも貢献するかも知れない。いずれにしても、戦争を知らない現代の私たちがすべき事は、そうした世界がかつてあり、そこへ繋がる道は現実のもので、今でも繋がっているのだ、という信じられない実感を、現代の私たちが最も馴染む表現で、感じ続ける事である。
戦争をテーマにした作品は多数ある。もちろん素晴らしい物も多数ある。しかし、そのリアリティを自分自身の日常に関連づけて感じられる物はどれだけあるだろう。こと実感、というものに関して、どれだけの配慮がなされているだろう。戦争を体験した人の実感と、体験していない人の実感は違う。火垂るの墓を観て、その哀しみを想い泣く事はできる。だが、人間はファンタジーでも泣く事ができるのだ。戦争の悲惨さを表現する事と、戦争が現実に存在しうる悲惨さを描く事は、似て非なる物だ。
だから、ただの戦争物語ではなく、戦争を体験していない私たち自身の物語、私たち自身の表現形式として、腫れ物に触る批判を物ともせずこの作品を描ききった作者の意志には感服する。
ゆえに、複雑に入り組んだ物語が分かりにくいとか、結末が意味不明とか、SF的なネタの吟味とか整合性がどうこうとか、もしも批判があったとしても、そういう点は些事でしかない。八坂一の13歳の夏の、あの暑さを、そして熱さを、感じる事ができればそれで良いのだろう。
ただ、個人的には、一が成長したあと、またあの地獄の中で、今度は本当にあらしを助ける、作中では描かれなかったその物語を観てみたいとは思った。
しかし、それは未来の話である(過去でもあるが)。未来は、我々が、読者が、造るものである。我々自身の未来の物語であるがゆえに、それは描かれなかったのである。今日この日は、いつでもその夏へ繋がっているのだから。
夏のあらし!の過去エントリ

小林尽
夏のあらし! 3~8巻
読み始めの時点からは想像も付かない重厚な話であった。大変素晴らしい漫画だったと思う。
この漫画が描いたもの、それを一言で著すなら、「地続きである」という事ではないか。
最終話で、八坂一は横浜から自転車で呉を目指す。来る日も来る日も、夏の太陽の下、汗だくになって坂を上る。そして下り、また上る。
一は、自分の足で、手で、確認したかったのだ。自分が愛した女性を助けようと跳んだ1945年の横浜空襲で、掴みそこね、手をすり抜けて落ちた運命を。自分を守って消えていったあらし。嵐山小夜子が生きた時代。間違いなく生を生きたという証明。そして「今も生きている」という希望。そうしたものへ繋がる道を、自分自身の力で辿る、その象徴としての旅だった。
何日も掛け、体力を削って果てしない距離を走破し、一は呉にたどり着く。
「道って… ホントに… 繋がってるんだな…」
60年前の女性と自分とを結ぶ道は、確かに繋がっていた。
現代の平和な日本。そして1945年の横浜空襲の生き地獄。
どちらの夏にも人はいて、その時代を自分の時代だと感じ、生き、暮らし、そして死んでゆく。
信じられないほど相貌の異なる二つの時代は、しかし、確かに繋がっているのだ。気が滅入る程の隔たりを持ちながら、しかし、同時に「たかだか チャリで 戻れるキョリ」なのである。
そして、「新幹線を使えば(略)4時間で」行けてしまうキョリに過ぎないのだ。
「ここまでの…あの道のりを たったの4時間で」
「それが今 俺は信じられない 貴女にそれを伝えたい」
この「信じられない」という実感を、イメージとして持ち続ける事、それこそがこの漫画の焦点だろう。
横浜と呉は、地続きである。
横浜空襲と現代の平和は、地続きである。
あらしの時代と、一の時代は、地続きである。
そして、さらに、もう一歩踏み込んだ作者の矜持がのぞく。
漫画と戦争は、地続きである。
コメディと戦争は、地続きである。
ラノベ調ギャル漫画と戦争は、地続きである。
戦争とは我々が歩いてきた道であり、今後歩いていく道でもある。平和な日本では、今更戦争?と思えても、果てしなく遠い異世界に思えても、実際には、たったの4時間もあればたどり着いてしまうのだ。技術の進歩はそれをさらに早めるかも知れないし、逆にそこから連れ戻す事にも貢献するかも知れない。いずれにしても、戦争を知らない現代の私たちがすべき事は、そうした世界がかつてあり、そこへ繋がる道は現実のもので、今でも繋がっているのだ、という信じられない実感を、現代の私たちが最も馴染む表現で、感じ続ける事である。
戦争をテーマにした作品は多数ある。もちろん素晴らしい物も多数ある。しかし、そのリアリティを自分自身の日常に関連づけて感じられる物はどれだけあるだろう。こと実感、というものに関して、どれだけの配慮がなされているだろう。戦争を体験した人の実感と、体験していない人の実感は違う。火垂るの墓を観て、その哀しみを想い泣く事はできる。だが、人間はファンタジーでも泣く事ができるのだ。戦争の悲惨さを表現する事と、戦争が現実に存在しうる悲惨さを描く事は、似て非なる物だ。
だから、ただの戦争物語ではなく、戦争を体験していない私たち自身の物語、私たち自身の表現形式として、腫れ物に触る批判を物ともせずこの作品を描ききった作者の意志には感服する。
ゆえに、複雑に入り組んだ物語が分かりにくいとか、結末が意味不明とか、SF的なネタの吟味とか整合性がどうこうとか、もしも批判があったとしても、そういう点は些事でしかない。八坂一の13歳の夏の、あの暑さを、そして熱さを、感じる事ができればそれで良いのだろう。
ただ、個人的には、一が成長したあと、またあの地獄の中で、今度は本当にあらしを助ける、作中では描かれなかったその物語を観てみたいとは思った。
しかし、それは未来の話である(過去でもあるが)。未来は、我々が、読者が、造るものである。我々自身の未来の物語であるがゆえに、それは描かれなかったのである。今日この日は、いつでもその夏へ繋がっているのだから。
夏のあらし!の過去エントリ