科学的とはどういう意味か/森博嗣
森さんの新書版エッセイである。夏頃新聞広告で見かけて気になっておりようやく読んでみた。
ちょっと想像していたものとテーマが異なっていたが、内容的には割と良い本だと思った。
3日間12時間で書き上げたとあとがきにあるが、別にそれほど急ぐ必要はないだろう。もう一手間かけて、じっくり推敲したら、よりよい本になったであろうに、と思われるような表現が散見されて、少々残念な気分になった。
さて、内容であるが、「科学」というものに馴染みがないという人、そして「科学」を嫌い避けているという人に対し、現代社会で科学的な存在や思考を避けて生きる事の不利益を説くものである。
ここで特筆すべきなのは、良くある科学啓蒙本のように、「科学は面白いよ楽しいよ」というスタンスを取っていないという点だ。いい大人に対して興味がないものを無理に勧めても迷惑がられるだけで届く訳がない、という判断である。確かにその通りだろう。かといって、科学嫌いを叱責し不見識による不利益でことさらに恐怖を煽るのも問題だ。という事で、穏当に、粛々と科学的な思考というものの道理を説明し、その効用、そしてそれがない場合の悪影響を淡々と書きつづる。
著者の目的は、著者の幸福にある。文明社会で暮らす以上、その社会の方向性は、マスの影響が避けられない。科学を嫌い、非科学的な判断や感情に支配された人々が増えると、社会全体もそうした方向へ向かってしまう。
そうしたマスの力の恐ろしさは歴史を見ればよく分かる。現代でも絵空事ではない。
進化論を教えると罰せられたり、宗教書を焼くと死刑になったり、教員の政治的信条を強制収集する首長がいたり、血液型占いが流行したり、マイナスイオンを発生しないと家電として格が落ちたり、そうした事がまかり通る国や地域は実際に存在する訳である。
だから、そうした好ましくない社会にならないように、自分自身のために、その一助として本書を書いた、という著者の意志はすごく良く理解できるし、共感を覚えた。
内容は極めて平易に綴られ、構成も整理され、読みやすいだろう。ただ、やはり、本当の科学嫌いは、ほとんど手に取らないだろう、実際に読むのは、むしろ科学好きか、森ファンぐらいだろうと思われるのが残念ではある。
科学や科学者について、理想化典型化しすぎている点が気になったが、本書の目的を思えば、やむを得ないところか。科学者集団の社会性や、パラダイムシフトの話など、敢えて目をつぶった、という事だろう。
ベッドから一歩も起きることなく生活する人々、という設定はSF短編などによくある。身の回りの世話は機械がやってくれ、学校も仕事も通信を使ってベッドの上でこなせるのだ。完全に保護され、世話される人々。やがて脳を直接ネットに繋ぎ、静脈点滴で栄養を摂れば起きている必要すらなくなる。果たしてこれは人間だろうか?
携帯電話を使いながらその仕組みを全く知らない、という人は、言わば、そのような状態に一歩足を踏み入れているのだ、という警告である。
原発事故で報道される多種の測定値。基準値の設定と判断を政府に一任し、そこに責任を求めるだけでよいのか?基準値ではなく、測定値を、自分自身で判断する事が、自立した市民として重要な事ではないだろうか?実際にできる出来ないはともかく、やろうとする事、できると思う事が重要なのだ。
食べる事は生きる事だ。食べ物が腐っているか、安全か、栄養があるかどうかは、自分の舌で判断できる事が動物としての基本だろう。
ならば、科学技術の時代に生きる人間には、科学を判断できる「舌」が必須ではないだろうか。腹を下す程度ならまだよいが、判断力がなければ、運悪く毒物を食べて死ぬ事だってあるだろう。
社会として毒物を排除せよ、という考え方は上記のSF社会に繋がる。
今ちょうどFF13をプレイしているが、社会に飼われている人間、というテーマは共通しそうだ。
科学を知らず科学技術社会に飼われて生きるのか、自立し自分で判断して生きるのか。すでに科学技術が網の目のように組み込まれた社会に生きている以上、科学の及ばない原初の社会へ移住する以外には、他に選択の余地はないだろう。
森さんの本はここまできつくは書いてないので、取り敢えず気になる人は本書を読んでみたらよいだろう。

森博嗣
科学的とはどういう意味か
ちょっと想像していたものとテーマが異なっていたが、内容的には割と良い本だと思った。
3日間12時間で書き上げたとあとがきにあるが、別にそれほど急ぐ必要はないだろう。もう一手間かけて、じっくり推敲したら、よりよい本になったであろうに、と思われるような表現が散見されて、少々残念な気分になった。
さて、内容であるが、「科学」というものに馴染みがないという人、そして「科学」を嫌い避けているという人に対し、現代社会で科学的な存在や思考を避けて生きる事の不利益を説くものである。
ここで特筆すべきなのは、良くある科学啓蒙本のように、「科学は面白いよ楽しいよ」というスタンスを取っていないという点だ。いい大人に対して興味がないものを無理に勧めても迷惑がられるだけで届く訳がない、という判断である。確かにその通りだろう。かといって、科学嫌いを叱責し不見識による不利益でことさらに恐怖を煽るのも問題だ。という事で、穏当に、粛々と科学的な思考というものの道理を説明し、その効用、そしてそれがない場合の悪影響を淡々と書きつづる。
著者の目的は、著者の幸福にある。文明社会で暮らす以上、その社会の方向性は、マスの影響が避けられない。科学を嫌い、非科学的な判断や感情に支配された人々が増えると、社会全体もそうした方向へ向かってしまう。
そうしたマスの力の恐ろしさは歴史を見ればよく分かる。現代でも絵空事ではない。
進化論を教えると罰せられたり、宗教書を焼くと死刑になったり、教員の政治的信条を強制収集する首長がいたり、血液型占いが流行したり、マイナスイオンを発生しないと家電として格が落ちたり、そうした事がまかり通る国や地域は実際に存在する訳である。
だから、そうした好ましくない社会にならないように、自分自身のために、その一助として本書を書いた、という著者の意志はすごく良く理解できるし、共感を覚えた。
内容は極めて平易に綴られ、構成も整理され、読みやすいだろう。ただ、やはり、本当の科学嫌いは、ほとんど手に取らないだろう、実際に読むのは、むしろ科学好きか、森ファンぐらいだろうと思われるのが残念ではある。
科学や科学者について、理想化典型化しすぎている点が気になったが、本書の目的を思えば、やむを得ないところか。科学者集団の社会性や、パラダイムシフトの話など、敢えて目をつぶった、という事だろう。
ベッドから一歩も起きることなく生活する人々、という設定はSF短編などによくある。身の回りの世話は機械がやってくれ、学校も仕事も通信を使ってベッドの上でこなせるのだ。完全に保護され、世話される人々。やがて脳を直接ネットに繋ぎ、静脈点滴で栄養を摂れば起きている必要すらなくなる。果たしてこれは人間だろうか?
携帯電話を使いながらその仕組みを全く知らない、という人は、言わば、そのような状態に一歩足を踏み入れているのだ、という警告である。
原発事故で報道される多種の測定値。基準値の設定と判断を政府に一任し、そこに責任を求めるだけでよいのか?基準値ではなく、測定値を、自分自身で判断する事が、自立した市民として重要な事ではないだろうか?実際にできる出来ないはともかく、やろうとする事、できると思う事が重要なのだ。
食べる事は生きる事だ。食べ物が腐っているか、安全か、栄養があるかどうかは、自分の舌で判断できる事が動物としての基本だろう。
ならば、科学技術の時代に生きる人間には、科学を判断できる「舌」が必須ではないだろうか。腹を下す程度ならまだよいが、判断力がなければ、運悪く毒物を食べて死ぬ事だってあるだろう。
社会として毒物を排除せよ、という考え方は上記のSF社会に繋がる。
今ちょうどFF13をプレイしているが、社会に飼われている人間、というテーマは共通しそうだ。
科学を知らず科学技術社会に飼われて生きるのか、自立し自分で判断して生きるのか。すでに科学技術が網の目のように組み込まれた社会に生きている以上、科学の及ばない原初の社会へ移住する以外には、他に選択の余地はないだろう。
森さんの本はここまできつくは書いてないので、取り敢えず気になる人は本書を読んでみたらよいだろう。